「RVが来たら」
「GESARAが来たら」
RVやGESARAが起こったら
自分のやりたいことをする。

そう考えてる人が存在する限り
それらは起きないと
私は思っています。
というかタイトル通り
『確信』しています。

起きる起きないの論争をしている人達は
経済やら現状の状態を分析して
根拠を説明しています。

でもそもそもそういう話ではない。
そう感じています。

私達はRVやGESARAに関する話を
コロナの真実や天皇家の話等々…
『刷り込まれた嘘』に関することと共に
受け取りました。

重要なのは『刷り込まれた嘘』の方。

それなら
『刷り込まれた嘘』に
自分の意識を傾けて世の中に目を向け
ニュースやSNSの情報から
嘘を具体的に暴いていくことが重要なのか?
と言われれば
そういうことでもありません。

RVやGESARAを含む
『刷り込まれた嘘』の情報は
いらない『しがらみ』を捨てる為の
ただのキッカケと材料に過ぎない。

少なくとも私はそう思います。




突然ですが
私はコロナワクチンを
一度も打っていません。

(先に言っておきますが、
打たないのが正しいとか
そういった話ではありません。
あくまでも
あのコロナコロナと騒いでいる中で
その判断を下せたのは何故か?
という話です。)

ワクチン接種の通知が届くような段階には
すでに『刷り込まれた嘘』の情報を受け取っていて
打たないという判断をしました。

そのずーっと前から
テレビを一切観なくなっていたのもあり
コロナという存在に元々懐疑的だったので
情報を知っていようが知っていなかろうが
打たなかったかもしれません。

しかしもしその時に
情報を知らず
家族や会社、世の中の大多数と
意識を共にしていたら
「どっちでも良いけど、
ごちゃごちゃ周りが面倒くさいから
とりあえず打っとくか」
という判断をしたと思います。

家族や会社、世の中。

それらからどう見られるか
受け入れてもらえるか
排除されたりしないだろうか。

その意識がしがらみ。

その時の私は情報の影響で
ワクチン接種の判断に関して少なくとも
しがらみに左右されない状態に
なっていました。

打つ打たない
どちらを選ぶにしろ
しがらみがない状態で判断ができたから
自分自身が心から望む決断を下せました。

誤解しないで欲しいのは
家族や会社(仕事)
世の中を切り捨てることが
必ずしもしがらみを捨てることではない
ということ。

しがらみを捨てるというのは
氣にするのをやめるということです。

そこまで氣に留める必要がないことに氣付くこと。



私は
その時その時に
自分自身に耳を傾けるようになっていきました。

「自分はどうしたい?」
自分自身の心に問いかけます。

でも一番大きな『お金』のしがらみは
なかなか捨てられませんでした。

その時よく口から出ていたのは
「RVが来たら」
「GESARAが来たら」
という言葉。

やりたいことが何でもでき
欲しいものが何でも手に入る状態
=RVで有り余るお金が手に入った状態

RVやGESARAの情報は
その状態を擬似的に作り出し
お金のしがらみから解放された状態にする為に
存在するのではないだろうか?

いつまでも起こらないRVを
ひたすら待ち続ける中で
ある日ふと頭に浮かびました。

人の目もお金の心配もない世界でこそ
本当に自分が望む生き方を見つけられるから。



しがらみには
『罪悪感』という形もあります。

私は比較的早く
この『刷り込まれた嘘』の情報を受け取り
RVやGESARAの話も合わせて
たくさんの人に伝えました。

コロナ騒ぎが起こり始めた頃。

私が伝えたことにより
外貨を手に入れた人もいます。

さらに伝えた人が他の人に伝えて…
という感じになっていました。

RVが全く来ない状況で
そういう仲間内での
お祭り騒ぎも落ち着いてきたある日
同じように情報を発信していた人から
「伝えた責任がある」
という言葉が出てきました。

ちゃんとその後の世の中動き
特にお金に関わるRVについて
情報を伝え続ける責任があると。

私はなにかモヤっとしました。

その頃の私は
情報の本質に疑問を持ち
情報が存在する意味について
考え始めていました。

それによって
すすんで情報を掴みに行くとか発信する氣に
なれなくなっていました。

最初に情報を受け取って起こした行動により
直面した問題を解決する為
大きな決断を繰り返す中で
私の意識自体も大きく変わっていました。

それに伴って
私にはそういった情報が
必要なくなったのだと思います。

情報とか世の中の動きよりも
今ここ、この瞬間
自分自身を生きることが
私にとっては最優先。

だんだんとそんな意識が
自分の中に深く染み込んでいきました。


責任。

もしそれにこだわるのであれば
この情報の本質や真意に
自分なりの答えを出して
それを伝えることが
私にとっての『責任』だと
今は思い至っています。
(今ここでここに自分の考えを書いているのは
一旦答えが出たからというのと、
ブログという形にしたのは必要な人必要ない人それぞれで自由に読む読まないを選べるからです。
もうこの後ブログは書かない可能性が高いです。)

そもそも私自身が
この情報を私に伝えた人に
「責任をとってほしい」などと
考えたことはありません。

話は少しそれますが、
このことに限らず
誰かに責任を求めた覚えは
もう何年もありません。

誰かや何かのせいにして
責任を求めることは
「あなたが言ったから私はこうした」と
自分人生の決定権を
誰かに委ねること
支配させるのと同じだと
そう氣付いてから
常に「この結果は自分が選んだことだ」と
生きてきました。

逆も然りで
責任を取ろうとすることは
その相手の人生を支配しようとするのと同じことだと考えています。

責任を誰かに求め
いろんなことに怒っていた頃は
逆に責任を求められ
怒りをぶつけられることが
よくありました。

でも面白いかな
自分がそれをやめてからは
一切「責任を取れ」的なことは
言われなくなりました。



責任は罪悪感を心に植え付けます。

誰かに迷惑をかけてしまった。
傷つけてしまった。
自分の責任だ。

そう考えて罪悪感が心に染み付いていくと
無意識に自分を傷つけたり
苦しませる選択を繰り返し
自分の現実に
問題を生み出すようになります。

最大のしがらみは
『罪悪感』ではないだろうか?

人に迷惑をかけてはいけない
責任を取らなくてはいけない
という意識もまた
『刷り込まれた嘘』と共に
植え付けられたものです。

こう伝えると多くの人が私を
無責任な駄目な人間だと批判するでしょう。

でも考えてみてほしいのです。

人に迷惑を一切かけずに生きていくことはできますか?

迷惑をかけてはいけないと
そう意識しながら生きていても極論
人通りの多い道を歩いていれば
誰かとぶつかってしまうこともあるでしょう。

人に迷惑をかけてしまうことがあるもある。
あったって良い。

お互い様。

だから
「迷惑をかけた」じゃなく
助けてくれてありがとう
赦してくれてありがとう
「ありがとう」で良いのだと思います。



『刷り込まれた嘘』の情報には
三次元とか五次元とかの話もあります。

単純に
情報を受け入れ理解している人は五次元
それ以外は三次元を生きている。
そう解釈している人は多いと思います。

私もかつてはそうでした。

しかし現時点での私の視点では
情報を受け入れている人も
情報をもとめている人は
三次元的だなと感じてしまうのです。

目醒めている人
目醒めていない人
という表現をする人もいましたが
そう伝えている人自身が
私には目醒めていない人に
見えるのです。

本当に目醒めている人は
ありのままの自分自身(心)を大切にして
自分の人生に夢中になれている人。

私はそう思います。

情報に意識を向けて
情報に依存してしまっている。

今の自分を疎かにして
大切にできていない。

自分自身ですら大切にできていない自分を
他の誰かが大切に扱ってくれることはあるでしょうか?

私はないと思います。

しがらみを捨てて自分の心に耳を傾け
意識を向け始めた時から
自分の人生を生き始める。

情報に囚われ
『悪』と表現される存在やものを意識することは
それらに力を与えるのと同じこと。

意識から外し
存在しようがしまいが関係ないと
自分を生きていくことで
自分の現実から消え去っていく。

多くの人がそうなれば
本当に存在しなくなっているでしょう。

水瓶座風の時代に入り
地球が五次元に向かい始めた
という話をするのであれば
それが五次元的な世界であり
生き方なんだと思います。

もしRVやGESARAが起こるとすれば
その時ではないでしょうか。

最もその頃には
影響を受ける人はいないかもしれませんが。


罪悪感により自分を大切にできず
何かができるようにならなければ
別の何かにならなければ
頑張らなければいけない。

何かを得なくては幸せになれないと
常に何かを渇望している。

ないものにばかり目を向けて
あるものの存在に氣付けない。

その生き方から解放されるキッカケが
この情報だった。

少なくとも私にとってはそうでした。

今あるものに目を向け感謝する。


今の私は自分の好きなことで収入を得て
このまだまだお金が必要な世の中で
生きていくことが目標です。

その為に日々自分に問いかけています。

「私は何がしたいの?」
「私は何が好きなの?」

答えはまだ出てきません。

これが好きだったんだ!と見つけても
実は違った…
あっこれをやりたかったんだ!となっても
あれ?また違った…と。

長年かけて積もりに積もったしがらみを
取り除き何かが現れるたびに
あっ!となっています。

いつか全て取り除けた時に
見つかるのだと思います。

見つけないと!とは思っていません。

そのうち必ず見つかるから
そんなに慌てず
今幸せに生きていることへの
感謝を重ねながら過ごしています。



あくまでも
私個人の思いや考えを記しました。

決して情報を求めることや
情報を共有することが良くない
なんて言うつもりもありませんし
思っていません。

それを必要とする人もいますし
それが私の使命だ!と
楽しくやっていっている人もいます。

楽しくて自分が好きでそうするのは
逆にとても良いことだと思います。

単純に
私にとってはもう楽しくない
もう私の生き方の中にそれはない
というだけの話です。

義務感で取る行動は
何かしら大きなズレを
生み出すものですから。


わざわざ自分の考えを伝える氣はありませんでした。

でも自分の思いを共有することで
誰かが楽になったり
役に立つこともあるかもしれない
と思い直して書くことにしました。

長くなりましたが
最期まで読んでくださった方
ありがとうございました。