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every time meg breathes

Le capitalisme est encore valable

わたしは二十二歳のいまだ処女だ。しかし処女という言葉にはもはや罵倒としての機能しかないような気もするので、よろしければ童貞の女ということにしておいてほしい。やる気と根気と心意気と色気に欠ける童貞の女ということに。
だれでもいいから別の言葉を発見して流行らせて、辞書に載るまで半永久的に定着させてほしいと思う。
「不良在庫」とか、「劣等品種」とか。「ヒャダルコ」とか「ポチョムキン」とか、そういうのでもいい。何か名乗りやすいやつを。
「堀貝佐世でえす、束谷大学文学部社会学科四回生の陽気なポチョムキンでええす。どなたか暇な方、五千円でよろしく」などと無駄に元気に言って、そこそこのさめた笑いをとりたい。

(略)

わたしが並外れて不器用なのは、わたしの趣味ではなくわたしの魂のせいだ。



(本文より)






【3日に1冊】を心がけているんだけども、
今まで全くのノーマークだった事が恥ずかしくなった。
“世界と対峙するために必要な悲哀”をテーマとした一冊である。


津村記久子「君は永遠にそいつらより若い」

$every time meg breathes






京都の大学に通い、大学卒業を間近に控え、就職も決まり、単位もばっちり。ある意味、手持ちぶさたな日々を送る、女主人公ホリガイ。
冒頭に述べたように、「童貞の女」が、キーワードとなっている。
ご覧の通り、過激で極端な書き方だけども、心を奪われる。
そして様々なエピソードが並行しながら、物語は進んでいく。
多くは語るつもりはないのだけど、
特に、友人カバキの会話が大変興味深い。


「あいつの手首には疵(きず)がある」「おれはそっから離れられん」
彼女であるアスミちゃんの手首の疵について、語るカバキ。


語るための痛みだろ。それも他人の
「問題がないのは悪いことじゃないけど、寂しいことなのかもしれない。わたしにはそれが普通だけど。このまま問題を抱えこんでも、わたしを助けてくれる人はいないと思う」

「あんたらは、どんな形だろうと助け合って生きてて、それでいいじゃないか。なんでギャラリーがいる?


ホリガイの言葉に怒りを感じたカバキは、
とどめにこんな暴言を吐く。

おまえの他者への無知は死んでいるのと同じだ






・・・ホリガイは
自分に会いたいと思う人などこの世にいないだろうと思いながら生きてきたし、 今もそうだ
という諦念と怒りを根源に持ち合わせ、生きている。


本当は心の底で、他者とつながりたいという切実な願望を抱いている。
ホリガイだけではない。誰もが。
だが、手を伸ばして光を掴もうとしたって、光の向こうには誰がいる?
返り血浴びた身体を、誰が拭ってくれる?
そんな考えが、おこがましい。
自分で拭うしかないのだ。
それでも、日向に凛と咲く花のように、生きていくしかないのだ。



そうして、もうひとつの孤独な魂と出会った時、ホリガイは思うのである。
「なぜ愛は畏れと同じように僕の心には触れないのかと歌った人のことを思い出した。
それは逆ではないのかと子供の頃に思った。
よその家の便所で裸で震えながら、彼が正しかったことを悟った」
と。







焦燥感。孤独。目を背ける。うす笑い。
言いたいことを飲み込んでその場をやり過ごすこと。
焼け野が原。
理不尽な暴力。侵害。不慮。
弱い者が理不尽に人生に傷をつけられてしまうこと。

「一度しか会ったことのない男の子の死に涙を流すのはおこがましいことだ」
確かにそうかもしれない。

でも、孤独な魂を持った目の前の相手に向き合うために、
何か言ってあげられる言葉を、
孤独を軽減させられる言葉を、
作者・津村記久子は懸命に探し続けた。

届くのかなど、わからない。
たとえ届いたって、救うなんて、できないかもしれない。

もはや、祈りなのかもしれないが、
作品に昇華することで、作者の祈りは永遠に凍結される。


作者のその姿勢に、心から感動した。
わたしは、よく小説を読む。
だが、わたしは津村記久子のような作家を知らない。








また、松浦理英子の解説が秀逸。
あまりに素晴らしすぎるので、引用したい。
これ以上、わたしの余分なレビューは割愛したい。

(引用)

文学作品が人の魂の糧になるというような考え方を、全面的に信じているわけではない。そのような考え方に抗う作品も数多く書かれて来たし、そもそも文学は魂と無縁のところに成立し得るものだ。

しかし一方で、文学の孕むものが読む者の胸の底、魂と呼ぶしかない深みにまで沁み入ることも確かにある。それが文学の本質ではないにせよ、文学という大きな器は魂に及ぼす力を含み持つことも可能なのである。

(略)

本作品は第一に、そのような孤独な魂の物語である。この魂は、苦悩を綿綿と綴ったりはしないし、世の中や他人に対する恨み言や自己憐憫を吐き散らしもしない。

(略)

変えられない、どうにもならない物事の中で、ホリガイが自分の孤独以上に憂えているのは、この世には男性と女性、大人と子供というふうに、力の強い人間と力の弱い人間がいて、力の強い人間の中には平然と力の弱い人間をする者がいる、という事実だ。それはレイプは児童虐待というかたちで端的に顕われる。

そこまでは行かなくても、作中でホリガイの身に起きたように、男性との言い争いの末に大根サラダや酒を浴びせられることもある。マッチョな男性に威圧され、言いたいことを引っ込めてしまった記憶を持つ女性だって少なからずいるだろう。

こうした身体的な力の差異は、社会がどのように変わってもなくならない、どうしようもない事柄で、私たちはそれに馴れ過ぎているせいか、改めて問題にしようとする人はほとんどいないように思う。ところが、ホリガイは、そして作者・津村記久子は、徹底的にこれにこだわって見せる。

(略)

<世の主流からはずれた者や弱い者はどうやって生きて行けばいいか>という前向きな問いかけだ。

(略)

ただ、津村記久子がここに書き顕わした、決して潰されない魂、鍛えられた魂は、世の孤独な者、弱い者になにがしかの光りを与え得ると思う。

(略)

やはり何と言っても本作品が、これを必要とするすべても人の手元に届くことを願ってやまない。<潰れるな>というメッセージとともに。







































不意に襲う呼吸困難に、やつれた心の脆さを
我が身に知ったときから、
わたしの永遠のヒーロー。賛否両論あるだろうけどね。

「流れる時代に
この鼓動は 止むことなく
闇を殴り飛ばすんだ
貧弱な魂は 孤独を自由と叫ぶ」


堂本剛「Panic Disorder」