こんばんは、ココアこと田中貴子です。
すれ違っていたはずの両親が、本当は助け合いたかったという話をしました。
その後のやり取りについて聞いたとき、母の言葉が変わったなと感じました。
例えば、こんなケース。
お通じが今ひとつすっきりせずに困っていることを話したら、父が頼まれた薬と共に、ヨーグルトやら牛乳を家にある分、ありったけを持ってきたそうです。
以前なら、施設に着いて早々、父が「重たかった」とつぶやけば・・・
「こんなに持ってきて・・・!沢山はいらないのに。」と言いそうな母。
「雨が降っている中、ご苦労さま。ありがとう。」と答えたらしい。
それで父は「大変だったよ」と言いながら、少し笑っていたように見えたというのです。
うんうん、いいねーと私。
どこが違うか、分かりますか?
「こんなに持ってきて!」のほうは、無理しなくていいのにという気持ちもありますが、善意の行動を否定されたようなニュアンスが入っています。
私だったら、こんな沢山持ってきたりしない。
だから重たくなってしまうんだ。
自分が楽に持てる重さにすればいいのに。
そんなつもりはなくても、相手には非難されたように感じます。
だから、あんまり嬉しくない。
「ちぇ!持ってきてやったのに!うるさいな。」
そんな後味の悪さが出やすくなります。
一方、「雨が降っている中、ありがとう」の場合は、相手の行動を想像しながら、ねぎらっています。
雨で傘をさしながら、よろけそうになったかもしれない。
ちょっと足を止めたり、もう少しだと励まして歩いたかもしれない。
持っていけば喜ぶだろうなとワクワク向かったんだろうな。
そんな相手の気持ちをも推し量って、感謝を伝えています。
だから、素直に嬉しくて、にやっと笑みが漏れたのでしょう。
相手を思って同じ行動をしたのに、結果が全くといっていいほど、違います。
これでは不十分、足りないと非難がくれば、もうしないの反発。
ありがとうの愛の気持ちには、また力になるよの愛の言葉。
まだまだ、「ありがとうを言っておいたわ。」のレベルみたいだけれど、でもその様子を話す母も、こっそり嬉しそう。
少なくとも、母のために、必死で持ってきたことには変わりはないんだもの。
量が多いとか、どうでもいい。
自分だったら・・・もいらない。
自分のために、手伝ってくれた、思ってくれた。
その真っ直ぐな優しさがいいのだ。
それをありがたく受け止められるといいな。
周りに迷惑をかけるのが嫌な母だけれど。
こうしてほしいの要求水準が高い母だけれど。
もっと楽に頼めるといいねー。
施設のスタッフさんに、ポットのお湯をお願いするときに、「6分目に入れてね」(笑)
細かに指示しがちなとこ、まだまだあるねー。
何度も足を運ばせるといけないから、多めにお願いするのとな。
少ないと困るのだそう。
それ、伝わってないよーーーー。
絶賛、人にお願いする、完璧でなくても文句言わないの修業中です。
ふくろうさんも、ふむふむ、やっておるなと、見守ってます。
そういう私はどう?と言われてるみたいな静かな目。
読んでくださって、ありがとう。
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