きのうの続きです。

 

ドラマで、例えば「歴史もの」というジャンルがあります。

歴史上の人物、事件を史実にのっとり、ストーリー仕立てで描きます。

「史実」(ノンフィクション)にないところは、作家がイメージをふくらめて書きます。

それが「フィクション」になります。

そこに小説家の生まれる余地があります。

 

昔だったら講談師が何回も同じ話を繰り返していましたが現代は

小説、映画、テレビ、マンガ、・・・・いろいろなメディアがあり、何回も繰り返し描かれ、

繰り返さるうちに飽きたり新鮮味がなくなりし(同じか)、新しいエピソードなどを挿し込み、

話が段々本道から外れてふくらみ、「史実」からかけ離れたものになってゆきます。

 

人気のある歴史上の人物ほど何回も採り上げられて繰り返しこすられ、

必然的にどんどん話はふくらみ、

終いには本人とは遠くかけ離れた人物像が描かれることになります。

 

そこでは歴史上の人物が、人々の好む方向、

理想的なヒーロー、ヒロイン像になっていきます。

それは経済的な理由

本なら発行部数、映画なら観客動員数、テレビなら視聴率を意識、

大衆に迎合して、大衆の喝采を浴びやすいキャラクターが知らず識らず形成されていきます。

 

その最たるものが「坂本竜馬」、

人々は「実像」を知らないで、

物語に描かれた「虚像」にほれ込み、

自分も日本を洗濯しようとか、

坂本龍馬が作った軍隊と同じ名前の音楽グループを作ったりする人がいるようです。

 

坂本竜馬が現代に生きていたら

「おら、そんなこと、言いもせんし、したことないがな。」

なんて言うかもしれません。

ギョーテとは、俺のことかとゲーテ言い。

 

そう、歴史上の人物はいつの間にか本人からかけ離れ、

日本人の「理想像」に近づいて語られるように、

 

あるいは時代を反映して、

悪いことはしなかった、汚いこともしなかった、

完全無欠のキレイごと、モラルリッシュな人物として語られるようになったと見えます。

 

見ないで申し上げるのもナンですが

去年の「徳川家康」なども、

作者の勝手な「家康像」が語られ、

それに視聴者が嫌気がさして視聴率が振るわなかった

「どうする?」どころか「どう仕様もなかった」

なんていう話も聞きます。

 

話の流れで申し上げると今年の大河ドラマ、「源氏物語」、

その脚本作家は視聴率が振るわないと外連(けれん)、

奇想天外、奇妙奇天烈、

突飛、マンガチックなお話を挿しこんで話題作りをし、視聴率を上げる手法をこれまでとってきました。

 

今回も早速スタートの視聴率が振るわないようですが、

その内見ていてご覧なさい、

突拍子もないお話の展開が始まるとおもいます。

 

斯様に、

物語なんていうのは

いつの間にか「原作」=本人から遊離して

ノンフィクションとフィクションの境がなくなっていくようです。

 

ましてフィクションを脚色する時代、

マーケットというものに作品を放り込んだら、

そこで原作のオリジナリティを云々というのはむづかしいのではないでしょうか。

 

別にChatAIでなくとも

わたしたちは虚像、仮想現実、拡張現実のなかで生きる時代になっているのかもしれません。

 

そしてわたしは酔生夢死

生きているのか死んでいるのかわからない毎日、

フィクションかノンフィクションかわからない生活、

 

楽しいぞな、もし。

 

カキクケ・喜喜喜喜・・・・・