母の日。ゴールデンウィーク明けからあちこちの花屋の店先ではカーネーションが所狭しと並んでいる。


いつも行くスーパーにも花屋があって、母の日セットで580円とかカーネーションがメイン。でも 敢えて買わない。クリスマス当日にクリスマスケーキ🎂買う、みたいな一番高値の時期に買わない。
その気持ちさえあれば供える日は選ぶ必要がないから。

母は昨年6月に亡くなった。
心臓のバイパス手術受け肝臓がんが見つかり入院していたが、その生活が辛くて鬱になり、それ以上の治療を選ばず、ホスピスで静かに最期を迎えることを選んだ母に妹の計らいで会いに行ったその翌真夜中に独り息を引き取った。

私は病気療養生活で、医療機関に繋がる前に精神的バランスが崩れきり荒んだ生活を送る中、母にとても酷い言葉をメールで投げつけた。「生んでくれなくて良かったのに!!!」首に臍の尾が二重に絡んで逆子で「この子は諦めて下さい」と言われる中超難産で生んでくれた母に…

ほぼ4年ぶりに私の顔を見た瞬間、母の眼から涙が溢れ出た…

まだ精神状態安定していない私は「お母さんの前だけでは平静でいて。」と妹に言われていたのでそう努めていたが、帰り際、再度顔を見に戻ったら、母は険しい顔をして一言「しっかりしなさい!」。

私の顔、言動で、私の状態など見抜いていたのだろう。あのお母さんなら。

その言葉を出すために最後の力を振り絞らせてしまったのだ。だから母の命を縮めたのは私だと思っている。


母の日の起源はアメリカの戦場の負傷兵の衛生改善活動を行ったアン・ジャービスの娘、アンナ・ジャービスが、1907年5月12日、亡き母をしのんで母が教師をしていた教会に、母が好きだった白いカーネーションを祭壇に飾った。 これに感動した人々が、その翌年の1908年5月10日、同じ教会で、470人の生徒と母親達が「母の日」として祝った。 アンナはこのときの参加者全員に同じく白いカーネーションを手渡した。 これにより、白いカーネーションが母の日のシンボルとなり、1914年にアメリカが5月の第2日曜日を「母の日」として記念日に定めたことに由来する。日本に伝わったのは明治末期から大正にかけて。
カーネーションの色によって意味合いが異なるようだ。私はアンナさんがなさったように追悼だから白だな。
白は「私の愛は生きている」赤は愛情。深い赤は私の心に哀しみを(これもまだ当てはまる気持ち) ピンクは感謝、温かい心。黄色は友情。
最近青いカーネーションも売られている。

これは遺伝子操作で白い花に着色したものらしい。花言葉は「永遠の幸福」。
ちょっとした仏壇コーナーを設けているがそこに最初に飾ったのは薄緑のカーネーション。ちょうど母の誕生日の4月4日頃に。生前しばらくカーネーション贈る事が出来なかったから。緑色の花言葉は「癒し」。
この2年間で父を失い、義理の妹を失い、母を失い、42年間愛し続けてきた坂本龍一を失い、その2カ月前に高橋幸宏を失い、必然的にYMOを失った…全て永遠に この世から…
「死」に対する漠然とした虚しさ、寂しさの灰色の塊に飲み込まれそうになる時がある。叫び出したくなるくらい哀しい時がある。両親の死については受け止められていない。でもそれが当然と私の理解者は言う。今はフワフワと浮かべておけば良い。それを受け取ったら私の許容量コップから溢れ出してしまう。いつかきっとコップに空きが出来るからその時で良いと。そして仲間の中で話していく事で腑に落ちてくるから、と。
その作業を「喪の作業」「モーニングワーク」というそうだ。幸い私にはそういう場がある。その事に感謝している。

離婚調停で負けて親権手放させられてから10年会えていない最愛の一人息子がいる。今年4月で20歳を迎えた。成人式に何かさせてもらいたかったな…一緒にいた頃は母の日や誕生日に私の似顔絵を描いてくれた。井の頭公園でママ友達と子供達は勝手に遊ばせてピクニックしてたら「ママはお花が大好きだから」と両手一杯に落ちた椿の花を抱えて私の膝に置いてくれた赤薔薇もう一年くらい経って私の生活がもっと安定したら探してみたら良いと理解者は言って下さる。再会果たして許されればこれからの彼の人生を少しでも支えられるような存在にさせて下さいと毎日祈っている。才音が元気で幸せで居てくれていますように🙏
そして世界中のお母さんが幸せな気持ちで今日一日過ごせますように✨