首里城の近くで開拓伝道をする教会

首里城の近くで開拓伝道をする教会

東京大久保にあるハレルヤ教会沖縄支教会 ACTs29チャペルのブログです。

救いとは、ゴールのように見えて、実はゴールではありません。

それは、神の命に生きる「軌道」です。

 

イエス様を信じ、聖霊様に導かれて歩み始めた人は、そこで人生が完成して止まるのではありません。むしろ、そこから永遠の前進が始まります。永遠に成長し、永遠に深められ、永遠に喜びが更新されていく歩みです。これこそが、尽きることのない希望そのものです。

 

聖書が語る救いも、「未来へ、未来へ」と続く命の約束です。天国行きの切符をもらって終わりではありません。今この地上で、神の国の命を生きながら、さらに豊かに、さらに人を愛し、人を救う者へと変えられていく生き方です。イエス様が十字架と復活を通して開いてくださったのは、止まらない命の道でした。

 

この救いの軌道に入ると、人生から嵐が消えるわけではありません。嵐も来ます。吹雪のような試練もあります。冷たい向かい風に立たされる日もあります。しかし同時に、春の風も吹き、青空も広がり、太陽の温もりも確かに注がれます。信仰の目で見るなら、そのすべてが神のご計画の中にあります。喜びの日も、涙の日も、どちらも無駄にはなりません。

 

だから私たちは、「生きること」を心から喜ぶことができます。そして、死さえも恐れに支配されません。死は終わりではなく、神の御手の中への移行だからです。生も喜び、死も委ねられる。この平安は、人の力ではなく、聖霊様が心に注いでくださる賜物です。

 

救いとは、完成して動かなくなる境地ではありません。何が起きても、人生が壊れない軌道に入ることです。問題が来なくなる人生ではなく、問題が来ても折れない人生です。むしろ試練が深まるほど、内なる命が強められ、喜びが深くなっていきます。

 

信仰の道には、必ず抵抗があります。祈ろうとすれば妨げが来ます。愛そうとすれば誤解されます。正しく歩もうとすれば、攻撃されることもあります。しかしそれは、「あなたの進んでいる道は正しい」という天からのしるしでもあります。暗闇が濃くなるのは、光が本物だからです。

 

聖書は、信仰ゆえの試練を否定しません。それどころか、試練を通して信仰が純粋にされ、命が練られると教えています。信仰の目で見れば、困難は妨害ではなく、成長への招きです。逃げる理由ではなく、神をさらに深く知るための扉です。

 

イエス様ご自身も、苦難の道を通られました。しかし、そのただ中で父なる神を信頼し切り、復活の命を現されました。その命が、今、私たちの内にも聖霊様によって与えられています。だから私たちは、揺れながらも倒れません。弱さを抱えながらも、前に進めます。

 

救いの軌道に一度入ったなら、そこから先は永遠の旅路です。立ち止まることはありません。生きている限り、成長があります。天に召された後も、神の栄光の中で、さらに満たされていきます。これが、イエス様が約束された命の豊かさです。

 

もし救いが「そこで終わり」だったなら、信仰はこんなにも生き生きとしたものにはならなかったでしょう。しかし神の救いは、常に前進し、常に新しく、常に希望に満ちています。苦しみも、喜びも、光も影も、すべてを抱きしめながら進んでいく人生です。

 

今日も、聖霊様はあなたをその軌道へと導いておられます。

 

恐れずに一歩を踏み出してください。

 

祈りをやめず、愛を選び続けてください。

 

イエス様にあって、あなたの人生は止まりません。

 

永遠に更新され続ける喜びの道が、今この瞬間も、確かに続いています。

 

「人は誇るために生きるのではない」

 

愛する兄弟姉妹の皆さん。
私たちはこの社会に生きる中で、学歴や職業、肩書き、能力によって人を測り、優劣をつける文化の中に置かれています。時には、そのような価値観が教会の中にさえ入り込み、知らず知らずのうちに、人を見下し、マウントを取る態度として現れてしまうことがあります。

しかし、聖書はこのような態度をどのように語っているでしょうか。


1. 誇りと見下しは罪の根にある

まず聖書は、人を見下す態度の根に「高慢」があることを明確にしています。

「高ぶりは滅びに先立ち、
心の高慢は倒れに先立つ。」
(箴言 16章18節)

高慢とは、自分を実際以上に高く置き、他者を低く見る心です。
マウントを取る人の多くは、悪意を自覚していないかもしれません。しかし、神様の前では、その無自覚さも含めて高慢は罪とされます。


2. 神様は人を外見や地位で見ない

社会は学歴や職業で人を評価します。しかし神様は違います。

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
(サムエル記第一 16章7節)

神様の評価基準は、肩書きでも実績でもありません。
その人の心、神様への姿勢、隣人への愛を見ておられます。

私たちが人を地位で測るとき、知らず知らずのうちに、神様のまなざしから離れてしまうのです。


3. イエス様はマウントを明確に否定された

イエス様は、宗教的にも社会的にも「上」に立っていると自負していた人々を、厳しく戒められました。

「自分を高める者は低くされ、
自分を低くする者は高められる。」
(ルカの福音書 14章11節)

また、パリサイ人と取税人のたとえでは、自分の正しさを誇った者ではなく、へりくだって祈った者が義とされたと語られています。
(ルカの福音書 18章9〜14節)

マウントとは、自分を高め、他人を下げる行為です。
それは、イエス様の教えと正反対の生き方です。


4. クリスチャンの間に起こりやすい危険

パウロは、教会の中で起こる比較と誇りについて、はっきりと警告しています。

「何事も自己中心や虚栄からすることなく、
へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」
(ピリピ人への手紙 2章3節)

信仰歴、奉仕の量、聖書知識、霊的体験。
これらが、いつの間にか誇りとなり、他者を見下す材料になってしまうことがあります。

しかし、聖霊様は人を誇らせるためではなく、へりくだらせ、愛へと導かれるお方です。


5. 誇るべきものはただ一つ

聖書は、誇ることそのものを全面的に否定してはいません。
しかし、誇ってよいものはただ一つだと語ります。

「誇る者は主を誇れ。」
(コリント人への手紙第一 1章31節)

私たちが誇るのは、自分の学歴でも職業でもなく、
神様が私たちを愛し、イエス様が十字架で救ってくださった、その恵みです。


結び

兄弟姉妹の皆さん。
もし私たちの心の中に、知らず知らずのうちに人を見下す思いがあるなら、今日、聖霊様に照らしていただきましょう。

「神は高ぶる者に敵対し、
へりくだる者に恵みを与えられる。」
(ヤコブの手紙 4章6節)

へりくだりは弱さではありません。
それは、神様の恵みが最も豊かに流れ込む場所です。

私たち一人ひとりが、イエス様の心を心として歩む者とされますように。
アーメン。

神が定められた蒔きと刈り取りの真理は、私たちの人生に厳粛に働きます。

 

それは、この世を支配する霊的な原則であり、誰一人として例外ではありません。

 

たとえ今が幸せに見えても、それが一生続くという保証はありません。

 

人の成功も、安心も、目に見える祝福も、ある日突然揺らぐことがあります。

 

聖書はこう語ります。

「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになるのです」

 

これは私たちを裁くための言葉ではありません。

 

むしろ、どこに人生の土台を置くのかを問いかける、神の愛の警告です。

 

この世の幸福には、崩れない保証はありません。

 

しかし、神は私たちに、決して揺らぐことのない保証を与えてくださいました。

 

それは、信仰によって生きる人生です。

 

イエス様は言われました。

 

「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は、岩の上に家を建てた賢い人に似ている」

 

雨が降り、川があふれ、風が吹きつけても、その家は倒れませんでした。

 

状況は変わります。

 

人の評価も、環境も、祝福の形も変わります。

 

しかし、イエス様を土台とする人生は崩れません。

 

聖霊様は、信仰の一点に力を注がれます。

 

揺れる心を支え、恐れを静め、どんな時にも立ち続ける力を与えてくださいます。

 

目に見える幸不幸に人生を委ねないでください。

 

あなたの生涯の厳たる保証は、信仰にあります。

 

イエス様が共におられ、聖霊様が導かれる人生は、最後まで守られ、完成へと導かれていくのです。