母が永眠した。
家族が全員揃ったところで、息が止まった。これで母の一生は終わってしまった。小学3年の頃から母の死を覚悟はしていた。乳がんが発病してから四十年、母は病気と闘いながら、私たち家族に最期まで寄り添ってくれた。最期まで…
家族には、母が全うしたように、私たちもできることはやって、後悔はなかった。けれどやはり全員、泣いていた。
孫たちも一緒に母の遺体を拭いて、そのあと、霊安室に移動された。

父と家に帰った。2人とも疲れていたので、軽く夕食を取り、早めにそれぞれ床についた。

ぐっすり眠っていたが、早朝4時過ぎころに大音量でコンポが鳴ったので2人とも飛び起きた。慣れないコンポのリモコンと本体のボタンでスイッチを見つけて消すまでに焦って、1分くらいかかってしまった。

あの音量では隣近所三軒先くらいまで叩き起こしてしまいそうな音で狼狽した。

父は、孫たちがいたずらしたに違いないと言うが、孫たちは私が帰省して1週間、この家では会っていないうえ、もし、プログラミングしたなら、昨日まで毎朝同時刻に同じことが起こったはずだ。

私は、母が、約束を守って、あの世はあるよ、と知らせに来たと思った。ただ家電の扱いが苦手でおっちょこちょいの母が、操作を誤ったのだろうと、笑いがこみ上げて来た。

ママ 知らせてくれてありがとう。

翌朝、大阪から毎日通っていた姉に電話して、父と弟と私の四人で、その日の打ち合わせをした。

皆、お風呂に入りたかったので、また、引き潮の時間を避けて、入浴に実家に戻ることになった。

 

午前中は、父が、そのあと、弟と私が、入れ替わることになった。

 

父が病院に戻って来たので、また、弟とバスに乗って、実家まで戻った。

 

先に、弟に入ってもらった。私は、洗濯物の区分けなどをしていた。

 

「お先に」

弟が出てきたので、私も入ることにした。

 

風呂場に入り、頭を洗い始めると、もともとマンションについていて、風呂桶につかりながら見られる防水のテレビが

いきなりついて、大音量を発した。私は、驚いて、泡をつけたまま、テレビを消した。

 

母が、「あの世はやっぱりある」と知らせに来たと思った。

 

霊感と言うと、なんだか、訳の分からないものが見えたり感じたり、聞こえたり、臭ったりするけれど、それが、幻影なのか、思い込みなのか、勘違いなのか、実は、人には、証拠として見せられないので、ほんの少し、自信がないものだ。

 

母ともよく体験した幽霊話や不思議な話をよく交換していたが、ずっとお互いに約束していたのは、

先に死んだ方が、あの世があったら、できる方法で、伝える、ということだった。

 

その際、よく家電や電気関係は、あの世から操作し易いと聞いたことがあったので、電気関係を動かそうということになった。

また、あるテレビで、あるお爺さんが、亡くなる前に、「あの世があったら額縁を斜めにして知らせに来る」と言う話を聞いていたので、母と、「額縁もできるか試してみよう」という話しになっていた。

 

お風呂から出た私は、弟に、「さっき、中でテレビ見てた?」と聞いたら、「見てないよ」というので、実は、と急に大音量で

テレビが点いた話をしたら、「故障したんじゃない?」と何十年私と母と付き合っていながら、現実的なことを言う弟であった。

 

そして、額縁をチェックしたら、居間の額縁が3つほど、歪んでいた。それで、その話をすると、「ええ〜。これも最初からこうなってたんじゃない?」と言うので、「そうかしらね」と言うことにしておいた。

 

 

 

 

 

 

母の下顎呼吸が始まってから、死に際に寄り添いたいので、引き潮の時間を避けて、用事を足すようにした。

父は母の横の簡易ベッドに、弟と私は、廊下の奥の患者の家族用の6畳ほどの畳の部屋を予約して、

宿泊させてもらうことになった。

 

就寝時間になったので、弟と私は、畳の部屋に移動して、布団を並べて敷き、子供の頃以来、何十年ぶりかで、

横に並んで眠ることになった。

 

この畳の部屋には、玄関のような間口があって、そこに足を踏み入れると、自動的に電気がパッとつく仕組みになっていた。

部屋の中には、別に和風の電気がついていて、手動でつけたり、消したりする。

 

実家に住んでいたころは、弟とよく、夜中過ぎまで、食卓や、冬はコタツで、いつまでもおしゃべりをしていた。

久々に、何十年前にタイムスリップしたようなシーンが戻り、色々おしゃべりをしていた。

だいぶん二人共疲れていたので、電気を消して、暗闇の中でボソボソと話を続けていた。

 

横になって、30分くらい経ったころか、いきなり、間口の電気が点き、二人共ぎょっとした。

弟が、「これって…」とつぶやいたとき、タバコの匂いのするパジャマを着た白髪の男性の気配を感じた。

すぐに気配が消えたので、その旨を伝えると、弟が、子どもの時代の時ように、ビビってしまった。

 

それでも、母が亡くなって知らせに来たのと、勘違いしているといけないという話になって、念の為、病室まで、

様子を見に行ったら、父も母も静かに眠っていてほっとした。

 

母のベッドの横には、親族が一緒に眠れるように、小さな簡易ベッドがついていました。

父がそこに、毎晩寝ていました。

 

私は、母の下顎呼吸が始まる前の最初の4日間は、実家に眠りに戻りました。

姉と弟は、それぞれ、大阪と奈良に戻りました。

 

実は下顎呼吸が始まり、ドクターから、3日以内に亡くなると説明があったとき、急に高校生の頃だったか、朝日新聞で、谷崎潤一郎の死に立ち会った人の話があって、ほぼ引き潮の時間に亡くなったと書いてあったことを思い出しました。

 

できれば、母の帰天の瞬間に立会いたいという気持ちで、ネット検索をしたら、今となっては、忘れてしまいましたが、

どこかのお寺のサイトのお坊さんが、潮の満ち引きと人間の誕生や死そとの関係について言及されていました。そして、

確か、その時間帯が、表になって書かれていました。

 

それを見て、できるだけ、引き潮の時間には、全員が揃っているようにしたいと父と姉と弟に相談しました。

 

姉と弟は、私の幼少期から、人が見えるとか、光が見えるとか、音が聞こえるとか、散々聞いていて、

慣れていたので、すんなりと話せました。

 

しかし、父は、ある意味、科学者なので、この場でなんと言うかなあとちょっと心配がありました。

でも、思い切って二人になったときに、切り出しました。

すると、じっくり私の話を聞いてくれたあと、

 

「実は、自分がインターンだったときに、ある病院の手伝いをしていたら、院長先生と看護婦長さんが、『今日は引き潮だから、

〜さんは、今日危ないね。ご家族に連絡をしよう』、と言っていた。そして、その通りその方は、引き潮の時間に亡くなったから、すごく印象に残っている。Bの話を信じるので、皆で、できるだけ、引き潮の時間は、揃うようにしよう」

 

こうして、引き潮の時間を避けて、順番に家の用事や、それぞれの入浴などの用途で、順番に家に帰ることになりました。

 

ターミナルケアを受け亡くなって行った母と過ごして起こった色々不思議な話を書きかけて、中途半端のまま気づいたら6年も経っていました。
幸いにも、起こったことを忘れないように、小見出しをつけて書いておいて良かったです。

読んで続きを知りたいと思った皆さま、大変お待たせ致しました。

 

前エピソードから、2年後の11月に、父から国際電話を受けました。

 

「ママの出血が止まらないので、今回は、もうダメかもしれない。」

 

その電話を受け、私は、すぐに、フランスでの諸々のオーガナイズをして、夫と子供たちに留守を頼み、

すぐに、飛行機に飛び乗り、京都のF病院のターミナルケア病棟へ、荷物とともに直接に向かいました。

 

病室では、姉が、母のベッドの横に座っていました。姉の顔を見てホッとしました。

 

私が入ると、「お婆ちゃん、Bが来てくれたよ。」と耳元に大きな声で知らせてくれました。

姉は甥のお迎えで大阪に帰ったので、私は、ぼんやりと焦点の定まらない母の目を見ながら、横に座り、手を握りました。

 

意識があるのか、ないのか、分からない中、手を握りながら、私は、母に話しかけました。

 

「ママ、私達を愛情一杯に育ててくれて有難う。 おかげで、すごく楽しい子供時代でした。一緒にいた時間、私は沢山反抗もしたけど、どんだけ、濃く関わってくれたことか。毎日沢山一緒に笑って、楽しかったね。私もNもTも、それぞれ家庭を持って、元気に暮らせているのは、ママがパパと私達を一所懸命に育ててくれたからよ。ママ大好き。ずっと大好き。」そう言うと、母は、私の手を一緒賢明握り帰してくれました。

 

「私は、フランスに、お嫁に行っちゃって、近くに居てあげられなくてごめんね。」

 

そう言うと、母は、一所懸命首を横に振りました。

 

そして、ままならない口を動かそうとするので、

 

「何が言いたいの?」と言いながら、注意深く口を見ていると、

 

何とか私に伝えようと、最後の力を振り絞っていました。

 

「ありがとう」と言う口が、はっきり分かりました。

 

「お礼を言うのは、私の方だよ。本当に今までありがとう。」

 

母は、私に意思が伝わると、満足したように、目をつぶり、意識が遠のいたようでした。