また同じ様に家にいる間は、体の辛い母が横になっている横で、

私もゴロゴロしながら、一緒に話す時間を作りました。

毎日不思議なことを言う母を、

「もしかしたらお迎えが近いのかもしれない。」と思いました。

 

母の容体が一進一退なので、医者の父は何とかして生き延びて欲しいと

あらゆる文献や情報を集め、母の担当医の先生方と治療方法を検討していました。

 

母は食事がほとんど喉に通らなくなっていたため、栄養分は点滴で入れていましたが、

何十年にもわたる闘病生活で、注射の針が刺せるところは、全てボロボロに

なっていて、またしても危機に陥りました。

 

医者の父は、一生懸命情報を探し、とうとう、心臓に直接栄養を入れる

方法で母を治療する事に心を決めていました。

 

しかし、この手術は、ある意味、色々なリスクを伴うとのことでした。

 

そのまま何もしなければ、明日死ぬかもわからないが、この手術がうまく行けば、あと半年は

生きられるかもしれないと望みをつないでいました。

 

一方、私は、以前母が

 

「医者の嫁の運命なのか、自分の意志とは別のところで治療が進んでしまい辛い」と

 

言っていたことがあったので、父に

 

「ママは、本当に治療を望んでるのかな?心臓の手術のリスクを考えると、そのままそっとして逝かせてあげた方がいいんじゃないのかな?」と話しました。

 

すると父は、赤い顔をして、ものすごい剣幕で怒り始めました。

こんな父を見るのは生まれて初めてでした。

 

「一分でも一秒でも長く生きした方がいいに決まってる!」と。

 

私は、正解のない決断なので、父と喧嘩をしたくないと思い、あとは、黙っていました。

そして、父と少し口論になったことを姉と弟に話しました。

 

二人は、口をそろえて、「すごく難しい。‟正しい”答えが無い。でも1つだけ言えることは、

父の幸せが母の幸せだっていうこと。母はそういう人だ。」と二人が口をそろえて言いました。私も賛成でした。

 

翌日、父と雑談をしているときに、フランスで大手銀行マンだった義父の話題になりました。おりしも、ある若いトレーダーが違法の操作をして、大儲けしていたことがばれて、有罪判決が出て、S銀行の株価は暴落した直後あたりでした。

 

彼は牢獄の中から、自分の体験を手記にして、出版しました。同じ銀行の出身だった義父も夫の3人の兄弟たちも話題の本を読んだと言って、家族の集まりで討論になっていました。

 

義父は、何度もフランス国内で支店長を務めていたので、銀行全体の利益を考えての意見で、若いトレーダーやそのチームや上司に対して非常に同情的な考えで、仕方がなかったと考えていました。

 

2番目の義弟は、自分の心に正直に生きることを信条としており、人間のずるさや偽善や、表面的な模範解答に対し容赦なく攻撃するタイプです。その彼が、

「銀行マンとしてのパパの意見は分かった。でも個人としての感想は、率直にどうなの?やっぱり、自分の株価がさがったから、恨みに思う部分もあるでしょう?」と何度も聞いていましたが、やはり義父は、職業人の目から、若いトレーダーを擁護しつづけ、銀行マンとしての意見を熱く語り続けていました。

 

すると、義弟が、いきなり会話を中断して、

「もういい。僕は、パパの個人の意見を聞きたかったけど、銀行マンの体裁を守るだけの意見なら、討論しても面白くないからやめていい。がっかりしたよ。」

と言い捨てて、部屋を出て行ってしまいました。

 

私は、父に教訓を垂れようと思って、この話をした訳ではありませんでした。

通常通り、家であったことや心を打ったできごとを、ただ、いつものように話しただけでした。

 

ところが、この話をした翌朝に父がこんなことを言いました。

 

「昨晩、ママの治療を考えていたときに、

自分は医者として、治療を考えているのか、

伴侶として治療をしたいのか、よく考えたんだ。

 

研究者であった身としては、どの治療が効果があるのか、

結果を見てみたいという願望は否定できないと思った。

 

でも、ママの夫としてどうかと自分の心に聞いてみた。

そうしたら、やっぱり、まだ、ママが逝ってしまうことに、

夫として心の準備ができてない。

寂しい。

まだ、生きててほしい。

一緒に居たいんだ。」

 

私は、母がどんどん弱っていくのを見て、このまま枯れるように息がなくなれば、

母は、楽になれるのではないか?と内心思っていました。 

 

でも、父のこの言葉を聞いて、私の心もはっきりと決まりました。

父が医者として、夫として、納得のいく方法を支持し、

最後まで皆で支えようと。

 

母は、栄養がなくなっていたので、弱っていましたが、

意識はしっかりあったので、

この数日の不思議な幻影の続きで、

一緒に母の横に転がって、会話を続けていました。

 

しばらくすると、また、母が、宙を見て、

 

「どうしたらいい?

 

今登山の途中なのよ。

かなり長い間歩いて来たんだけど、

先がどれくらいあるか全く見えないのよ。

 

でも、上から人が沢山どんどん降りて来るの。

 

荷物も重いし、もう私も降りようかとも思うんだけど、

降りるのもすご-く長い道なのよ。

せっかくここまで登ったのに、

降りちゃっていいかも迷うところなのよ。困ったわ。」

 

と言うので、私は、また、連日のように、

 

「なら、今降りて来てる人に、あとどのくらいあるか聞いてみたら?

山頂がすぐなら、続けて登ったら?

もしものすごく遠いというなら、降りちゃえば?」

 

と言いました。すると、母は、

 

「それが、下山してる人達には、とても声がかけられる雰囲気じゃないのよ。

聞けないわ。」

 

と言って、しばらく、困っていましたが、

 

「やっぱり登るわ」

 

と決心したようでした。

 

翌日は、私は後ろ髪を引かれる思いで、日本を後にして、

フランスに戻りました。

 

その数日後、母は、心臓に栄養を入れるチューブを手術して、あの体力でよく持ったと思いましたが、奇跡的に手術が成功し、そこから栄養が取れるようになりました。

 

それから、母は、車椅子で生活をしていましたが、亡くなるまで、2年間

父と生活をしました。

 

今から思うと、あの夢は、とても暗示的だと思いました。

あの時、母が下山すると決めたら、もしかしたら、

すぐ亡くなっていたかもしれないと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年4月に母が退院してから、引き続き不思議な話が続きます。

 

フランスに戻るまで毎日、母の寝室で話し続ける私。

母はいつものように、私に寄り添った会話とアドバイスを続けます。

 

すると、前日のようにまた、会話の途中で急に虚空に目を走らせ、

 

「困ったわね。こういう場合は私はどう行動すべきなのかしら?」と母。

 

「こういう場合って?」と私。

 

「お侍さんが海辺で二人で一騎打ちをしてるの。私は、なぜか子供の姿で、

絣の着物を着ているわ。松の陰に隠れて二人を見てるんだけど、

私は出て行って止めるべきなのかしら?」迷う母に私は、

 

「子供なんだったら、この場合は、仕方がないわよ。見守るしかないんじゃない?」と言うと

 

「そうね。これは、仕方ないわね。」と納得する母。

 

余りに臨場感のある目の動きに、私は、つい

 

「ねえ、そのお侍さんたちって、イケメン?」と聞くと、母は、じっと観察する目の動きをしながら、

 

「そうでもないわね。」

と言うので、大笑いしてしまいました。

 

 

 

 

 

2017年4月、乳がんと闘っていた母が大腸炎になり、衰弱して危ない状態になったため、

2週間の予定で子供達の送り迎えや食事の支度の段取りをつけ、フランスから2週間の予定で帰省しました。

母の体調炎での入院は、9日目くらいに緩和し、少しずつ食事もとれる様になったため、

母の強い希望で、自宅に戻ることになりました。私は、帰国前、3日間、母と一緒にゆっくりと過ごすことができました。

 

家では、車椅子で生活をしていましたが、辛そうだと、ベッドへ移し、隣にある父のベットを拝借して、母と横に並び、色々思い出話をしたり、いつものように日常の話をしたりしていました。

 

その会話中に数度、突然、会話を遮り、母が、

「私はどうしたらいいのかしら?ここにいてはいけないはずの人が2人いるんだけど。。。」

と言うので、私は、

「どなた?知ってる方?」と聞くと、

「分からないわ。」と母。

「なら、お名前を聞いてみたら。」と私が言うと、

「それはとても聞きにくいわ。とても聞ける雰囲気じゃないのよね。」

と言うので、

「じゃあ、居たいだけ居てもらいましょう。」と言って、会話を打ち切りました。

母は、ときどき、部屋の隅に視線を向けて、

その方たちがまだいるかチェックしていました。

 

私は、母には言いませんでしたが、心の中で、

「まさか、お迎えのお役目の方達じゃないかしら?」と思っていました。

 

 

 

母は、湘南育ちでした。

江の島にある女子校に小学校から高校まで12年間通学しました。

「ごきげんよう」の挨拶言葉で有名な、かの女子校です。

藤沢の祖母の家に遊びに行った折、何度か江ノ電に乗って、

江の島まで遊びに連れて行ってもらいました。

 

藤沢駅から小さな江ノ電に乗り、最初は民家を通り抜け、

そのうち海辺の風景が見えて来ます。

宮崎アニメの「千と千尋の神隠し」で、最後の方に千尋と‟顔無し”たちが

小さな電車に乗りセピア色の駅を通って行きますが、

あの風景はまさに私にとっての子供の頃の江ノ電のイメージです。

のんびりごとごと揺られながら、江の島につくまで、景色を楽しんだものでした。

 

江の島に着くと、大抵は、島の方へ渡るのですが、

ある時、母が思いついたように、

「私の母校を見せるわ」と、急にS校の入り口まで

家族で行ったことがありました。

近くにいた子供達のタブリエ(制服をこう呼ぶらしい。)を見て、

「あら~!制服も変わってないのね!」と驚いていました。

 

私は、母がS校時代の思い出を話してくれるたび、

若き母があの制服を着てる姿をイメージして、

話の行く末を楽しみに聞いたものでした。

 

時は2017年の4月に戻ります。

フランスに住む私の元に父から電話がありました。

 

当時母は、肺と肝臓に転移が見られ、新種の抗がん剤が出る度、

一進一退の状態でした。抗がん剤で体力が弱っていたところ、

大腸炎になってしまい、「衰弱して、殆ど何も食べられなくなっており、

このままいくと危ない」とのことだったので、

夫と数人の友人に2週間の留守番のお願いをして、

子供達を託し、単身で京都に戻りました。

 

母は入院先の病院のベットの中で横になっていました。

寝たり起きたりの状態だったようですが、私が着いたときは、

姉が薄く目をあけ意識のある母と話していました。

 

私の顔を見ると「遠いところから私のために、

すみませんね。死ぬ死ぬ詐欺と言われるわ〜。」といつものごとく、

早速、冗談を言ってきたので、ほっとしました。

 

しかし大腸炎は酷く、みるみる気の毒なほど痩せて行きました。

私の方は、母に昔話をしたり、フランスでの子育て奮闘話をしたり、

娘の保護者会の苦労話をしたり、常々電話で話していたようなことを、

いつもの調子で話していました。母も、いつもの調子で、

親身になって聞いてくれ、色々アドバイスをくれました。

 

そんな会話の途中、いきなり、ぱっと目を輝かせて、

「あら、アナタ見て!江の島よ!江の島が見えるわ!」と

虚空を指さし、私にも何とか見せたいという感じでした。

 

私は、リリー・フランキーの「東京タワーおかんとボク」で読んだ、

リリーさんのお母様の臨終時を思い出しました。

 

「これは、時空を超えて、江の島に母の意識が今飛んでるに違いない」

と思い、母に、

「どう?お天気は?」

と聞くと、

「よく晴れてるわねえ。」

と気持ちよさそうに虚空を見つめていました。

 

私まで、潮風を受けたような気持ちになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母の最期-トピックス

 

大好きだった母が2018年11月に77才で永眠しました。

 

母は私が10才のときに乳がんを発病し、40年間闘病し、愛情と気力で闘い続け、私達家族の人生に最後まで寄り添ってくれました。

 

生前は霊感、第6感の非常に強い人で、私もその血を引いたため、不思議なことがあると、互いに報告し合い、常日頃「先に逝った方が、あの世に行ったら、お互いに分かる方法で、コンタクトしようね」と言っていました。

 

母や私の体験した霊体験は、それはそれで興味深いので、徐々に書き留めていこうと思いますが、まずは、母の晩年で起こった不思議な話をご紹介したいと思います。

 

母の最期

1度目の危機 2018年4月

 

「京都の病室から江の島が見える」

「いてはいけない人がいる」

「お侍さんが一騎打ちをしている」

「この登山、続けるべきなの?降りるべきなの?」

 

母の最期

2度目の危機 2019年10月末-11月帰天

 

危篤の知らせをもらって急遽帰省し、母が亡くなるまでの10日間に、不思議なことが色々ありました。

「手を握って通じた思い」

「患者の家族の宿泊所で起こった自動電気の不思議」

「勝手についたテレビ」

「潮の満ち引きと人の死」

「早朝に大音量で鳴ったコンポ」

「斜めになった額縁」

「光り輝くように若く美しい母」