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週末に和美が実家を出て行き、広い家には花江と叶だけになった。叶は血の繋がらない花江との暮らしに少々緊張していたが、花江が
「叶ちゃん。和美も時々は帰ってくるって言うし、今まで通り何~んも気にせんと、のんびりやってくれたらええからな。お洗濯とか掃除とか、私の難しいところ手伝ってくれたらええから」
と笑顔で言ってくれたので、安心して過ごすことにした。花江が出かける時は叶に伝えることにし、叶が出かける時は花江にメモを見せるか、花江が忙しそうな時は茶の間のテーブルに「どこそこに行く」とメモを置いて行くということになった。
それからしばらくは2人でのんびり暮らし、和美たち夫婦もたまに実家に泊まりに来ることもあったが、その頃から少しずつ、花江に良くない変化が見られるようになった。まだ高齢者と呼ぶには少し早い花江が、認知症を発症したのだ。
最初は、よくある「あれどこやったっけな?」という、物を探すことや「やろうとしていた用事を忘れる」という程度の軽いものだったが、だんだんと叶のことを和美と間違えるようになり、着替えることもしなくなるなど、日増しに症状がひどくなっていった。
最初は、叶も花江に付き合って一緒に物を探したり、毎日の予定を教えたり一緒に風呂に入るなどして優しく対応していたが、花江の症状が進むにつれ自分一人では対処できなくなってきたと感じ、和美たちに助けを求めた。
週末和美たちが泊まりに来た日、花江を先に寝かせて3人でお茶を飲みながら、今後のことについて話し合った。
「うちの施設の認知症病棟に入ってもらうことも出来るけど、どうする?」
と幸司が提案すると、和美は
「そうだね。でも、それだと母ちゃんばかりに目を向けてしまって、他の利用者さんの対応がおろそかにならないか心配」
と言い、他の認知症患者対応の施設で見てもらうのはどうか?と幸司に聞いた。
「そうしたら、まずは施設入所の前にデイサービスを利用してみる?送迎は施設の人にお願いできるけど、普段の世話が叶ちゃん1人で心配なら、僕らがこっちに越してくるから、みんなでお義母さんの面倒を見よう。外に出て人と関わることで、少し症状が改善されるかもしれないから」
幸司は叶にも意見を求めて、叶もそうしてくれるとありがたいと伝えた。和美は
「ええの?なんか申し訳ない気がするけど」
と幸司を気遣うような表情を見せたが、幸司が
「だって、お義母さんは僕にとっても大切な人だから。それに僕たち夫婦は、福祉のスペシャリストでしょ?僕たちが面倒見なくて、誰が見るの?」
と笑って言ってくれたので、和美も素直に幸司の気持ちを受け入れることにした。
そうと決まれば善は急げで、さっそく幸司が花江のデイサービス利用手続きを進めてくれた。
そして、和美たち夫婦は2週間後に引っ越してくることが決まり、それまでは和美が実家に泊まって花江の世話をしてくれることになった。
花江は週に3日、近くのデイサービスに行き、他の日は和美と幸司が交代で畑や散歩、買い物に連れ出すなど、積極的に刺激を与えた。毎週末は、家で叶も含めて4人でのんびり過ごす日にすると決めた。
茶の間で楽しそうに折り紙を折っている花江を見ると、とても認知症があるとは思えない。
しかし、ふとした瞬間に遠くを見つめたり、「父ちゃんはどこ行った?」と典文を探すなど、やっぱりそうなんだと思わせる言動も度々見られた。
2週間後、和美たちが引っ越してきた。
また和美たちと一緒に暮らせるからと、花江がささやかなお祝いをしたいと言ったが、花江の認知症のことは近所の人たちには伝えておらず、一番近くの和文たちだけに伝えていたので、夕食に和文一家だけを呼んで、「これから何かあったら協力してほしい」と頼んだ。
和文たちも快く了承してくれ、
「大変なときは、いつでも声かけてください」
と言ってくれた。
しばらくして、和美が妊娠した。安定期に入るまで、仕事は少しペースを落としながら軽作業に切り替えてもらっていた。花江はもちろん喜んでくれて、
「まぁ~それはそれは。ご近所の人たちにもお知らせしないと」
と言ったが、不安定な時期に大騒ぎをされて和美の体調に影響が出てはいけないので、和文には、もし花江が徘徊したり何かご迷惑をおかけすることがあれば助けてくださいと伝え、他の近所の人たちには幸司からそれとなく、
「和美が妊娠したので、しばらくは静かに見守ってください」
と伝えるに留めた。それでも出産を経験したおばちゃんたちからは、出産まではこうしたほうがいいというアドバイスや、栄養を取れる食事のお裾分け、「何か心配なことがあったらいつでも呼んでね」という温かい言葉など、ありがたい協力体制を敷いてくれた。
おかげで和美は無事に安定期を迎え、大きなお腹で職場を歩いていると、利用者の一部の男性たちから
「あんた、太ったんかい?」
とツッコまれたり、女性たちからは
「まぁ~、元気な赤ちゃんが生まれるといいわね」
と励まされたりしていた。
ここ数日は花江の症状も安定し、認知症を発症する前の状態に少し戻っていたのか、和美の出産にあわせて必要な物を買いに行こうと張り切っていた。
幸司も和美も叶も、花江が楽しそうにしているので一緒に買い物に付き添い、みんなで生まれてくる子どもの身の回りのものをワクワクしながら選んでいった。
その後は何事もなく、和美は無事に第1子となる元気な男児を産んだ。
名前の候補はいくつか挙がり、幸司と和美から1字ずつ取って「和幸」というのもあったが、和美が
「父ちゃんの名前も入れてあげたい」
と言い、最終的に「和典」という名前になった。花江は
「日本男児らしくて、いい名前ね」
と喜んでくれ、和美の退院後、さっそく近所の人たちを呼んで和典のお披露目会が催された。
それから少しして、また花江の症状が進んだ。今度は、トイレが間に合わないことが度々あったり、いつのまにか和文の家に上がり込み、勝手にお茶を飲んでいたりしたのだ。
幸司たちは、これ以上家に置いておくといろんな人に迷惑を掛けるかもしれないと、花江を自分たちの施設にある認知症病棟に入院させることにした。
花江は、最初こそ「家に帰りたい」と騒いでいたが、他の職員や利用者と触れ合ううちに慣れてきたのか、和美たちに笑顔で
「お友だちができて嬉しいわ」
と報告していた。
ある夜、和美は幸司に相談事をしていた。
「母ちゃんの症状がこれ以上進む前に、もう一度神戸に連れて行ってやりたいんだけど、どうかな?ハーブ園、歩けなくなる前に見せてやりたいの」
幸司は少し悩むような表情を見せたが、
「そうだなぁ。和典もいるし、和美1人じゃ大変だろうから、僕も一緒に有給取るよ。調整して、叶ちゃんも一緒にみんなで行こう」
と快諾してくれた。時期は、ラベンダーが綺麗に咲く6月に2泊3日の予定で行くことに決まった。
颯太も誘うと、初日は難しいが、2日目に少し遅れて合流することは出来るから、向こうで待ち合わせることになった。
神戸旅行の日。
認知症のある花江に長旅はキツいかもしれないと心配したが、当の本人はいたって余裕で、車窓の景色や駅弁をニコニコしながら楽しんでいた。
新神戸駅からハーブ園まではロープウェイですぐだったが、初日は移動の疲れを癒やそうと、すぐホテルに入ってくつろいだ。
以前の神戸旅行と同じく、和美と花江がゆっくり出来るようにと男性部屋・女性部屋の2部屋を取り、幸司が和典の世話をすることにした。
和美が花江に
「明日ここ行って、いっぱい花見ようね」
と言うと、花江は
「まぁ~、楽しみね。母ちゃんハーブ大好き♡」
と、少女のように目を輝かせた。
夕食はバイキングがメインだったが、花江には少々難しいだろうと幸司が気を利かせ、バイキングとは別に4人で一緒にシェアして食べられる弁当も1つ用意してもらった。和典は、幸司と和美が交代で食事をする間、2人が順番に抱っこした。途中で花江や叶にも抱っこされたが、泣かずに大人しくしてくれていた。
和美が花江の入浴を済ませ、夜用のオムツを履かせて先に花江を寝かせると、和美と叶も順番に入浴した。叶が
(おつかれさま)
と和美にジュースを渡す。まだ授乳中なので、飲酒が出来ない。
「ありがとう」
と受け取り、半分くらい一気飲みする。
「ぷは~、いくら身内でも、やっぱりこういう人を世話するのって大変だわ。いや、身内だからか」
と、和美は少し愚痴っぽく言った。
(和美さん。私これから出来ることあったら何でも手伝うから、遠慮なく言ってね)
「ありがとう。でも母ちゃんの世話は最後まで私がやってあげたいから、叶ちゃんはその他の家事とか、買い物とか頼む。あと、たまに和典の面倒も見てやって。叶ちゃん優しいから、年の離れた弟が出来たみたいに、丁寧な世話できると思う」
OKサインを和美に見せる。
その後、幸司が和典を連れて部屋に来て授乳やオムツ替えを頼んだので、2人はしばし幸司の部屋で世話をしていた。叶は花江の寝顔を見ながら、自分はあんなに器用に育児や介護が出来るだろうか?と少し不安な気持ちを抱いていた。
翌日は、ロープウェイでハーブ園山頂駅まで行き、そこから少しずつ園内を散策していく。
広い敷地内では、多種多様なハーブをはじめ、バラや四季折々の花が鑑賞でき、土いじりが好きな花江は色とりどりの鮮やかな花に囲まれ、今までにないくらいの笑顔ではしゃいでいた。
和美がラベンダー園の前で花江の写真を撮り、ハーブの足湯で疲れを癒やし、芝生に座ってジュースを飲みながら、遠くまで望める景色を楽しんだ。
「母ちゃん連れて来られて良かったね」
と和美が言うと、幸司も
「本当に。元気なうちに孫もできて親孝行してもらって。きっとお義母さん、最高に幸せだと思うよ」
と花江のほうを向いて言った。和美が
「母ちゃん、ハーブ園来られて嬉しい?」
と聞くと、花江は正常な状態なのか、
「うん。こんなに綺麗なところ、人生で一度来られるかどうかだからね。和君も一緒に来られて良かった。あ~幸せ。もういつ死んでもいいよ」
と言った。
「母ちゃん、まだ死んじゃだめだよ。叶ちゃんの花嫁姿見るんでしょ?」
「あぁ、そうだね」
と鼻歌を歌いながら、
「お腹空いたね。何か食べに行こうよ」
と和美たちに催促した。
ハーブ園では、花江が食べられそうなものがあまりなかったので、早めに街に降りて適当に店を探し、軽めにうどんを食べることにした。食事をしていると、颯太から
「神戸三宮駅のスタバにいる」
と電話が入った。颯太はちょっと寄ってみたい店もあるというので、予約していた「ホテルヴィラフォンテーヌ神戸三宮」のロビーで1時間後に待ち合わせることにした。
叶は少し観光をしてみたかったので、颯太に
(私も一緒に行きたい)
とLINEをするとOKのスタンプが来たので、和美たちと別れ、颯太のいるスタバの前で合流することになった。
颯太が行きたいと言った店は「SILVER501」といって、アメリカから買い付けてきたシルバーのインディアンジュエリーを販売しているアクセサリーショップだった。
颯太も今回マップを見て初めて知ったらしく、2人で恐る恐る入ってみた。店内には、ホピ族、ナバホ族、ズニ族などいろんな種族が制作した個性的な作品が並び、確かに颯太のような男子が好きそうな感じだった。
しかし、作品の中には“水”や“太陽”など自然にまつわるものから、動物や植物など身近なものをモチーフにした馴染み深いデザインもあり、シルバージュエリーの知識が浅い叶でも、純粋に(かわいい!)と思ってしまった。
颯太が
「ペアで何か買う?」
と聞いてきたが、値段を見るとどれも高めでビックリした。叶が悩んでいると、
「金ならいっぱい持って来たから大丈夫。安心して好きなの選んで」
と言い、叶はなんとなく目についていたホピ族のカメがモチーフに描かれたリングを指さした。颯太もサイズ違いで同じリングを買い、2人でさっそく着けた。
「なんか、こういうのお守りみたいでカッコいいよな。ずっと大切にしような♪」
(うん♪)
途中で匂いにつられて夜のおやつ用に少しだけパンを買い、2人で手を繋いでホテルに戻った。
ロビーでは、和美たち3人が椅子に座って談笑していた。
「お帰り。どこ行っていたの?」
と聞く和美に、2人で手を見せて
「じゃーん!インディアンジュエリーショップでペアリング買った」
と颯太が自慢した。
「どう?カッコいいだろ?」
と言うと、幸司が
「お、いいね!いかにも颯太君らしい。似合ってる。叶ちゃんもかわいい」
と言い、和美は
「何それ。早くも婚約指輪?」
とはやし立てた。
チェックインを済ませ、男女で別れてそれぞれの部屋に入った。
颯太は和典と会うのが初めてだったが、和典は特に人見知りせず、颯太が見つめても笑って返した。
夕食と入浴を済ませ、和美たちがテレビを観ながらくつろいでいると、突然花江が
「和美、叶ちゃんも今日はありがとうね。旅行すごく楽しかった。もう何も思い残すことはないよ。私は、あんたたちや幸司さん、颯太や和君が、ずっと元気でいてくれるのが一番嬉しい」
と、しみじみ言った。和美が驚いて
「母ちゃん、いきなり何言っているの?またいつでもみんなで出かけられるよ。母ちゃんこそ、元気でいてよね」
と言い、花江の肩を抱く。花江は静かに
「そうだね」
と笑った後、「疲れたから先に寝るよ。おやすみ」と言って布団に入った。それが、正常な花江の姿を見た最後だった。
翌日、帰宅する新幹線の中で花江は心ここにあらずというように放心状態で、施設に戻って職員や他の利用者が話しかけても、上の空の状態が続いた。それからしばらくは、症状が出たり正常に戻ったりを繰り返しながら何とか生活していたが、旅行から数ヶ月後、花江は昏睡状態になり、それから数日経った暑い日の夕方、眠るように息を引き取った。医師によると、老衰だろうとのことだった。
幸司と和美は、和典を一晩だけ叶に預け、施設で花江との最期の別れを惜しんだ。
お通夜の日。
近所の人が世話をしてくれている中、颯太がタケ夫と菊子を連れて弔問に来てくれた。菊子が
「和美ちゃん、悪かったね。私ら何も出来んで。はい、これ」
と言って和美を労い、香典とお供えを渡した。和美はタケ夫たちに和典を紹介し、
「おじちゃん、おばちゃん、ありがとう。母ちゃんに会ってやって」
と、仏前に案内した。
タケ夫と菊子が手を合わせる。そこには、数ヶ月前の旅行でハーブ園に行った時に和美が撮影した、ラベンダー園の前で微笑む花江の写真が飾られていた。
「まぁ~、いい写真ね。私も死んだら、こういう遺影にしてもらおうかしら」
と菊子が冗談交じりに言う。タケ夫が
「バカなこと言うな。お前はまだ長生きして俺の側におれ。なぁ、颯太?」
と颯太に話を向けた。颯太は
「そうだな。でも先のことは分からないから、元気なうちに父ちゃんと母ちゃんを旅行に連れて行ってやるよ」
と、早い時期に親孝行をする約束をした。
お通夜が終わり、和美は和典を菊子に預け、客間にタケ夫たちの布団を敷きに行った。
和典は少しだけぐずったが、菊子があやすと大人しくなった。タケ夫が幸司に話しかける。
「幸司君、花江さんの世話してくれてありがとうな。大変だったろう?」
「いえ、僕も和美も仕事柄こういうことは慣れていますから」
「それならいいんだが。まぁ、いずれはみんな通る道だからな。だけど、俺たちもいつかボケたら颯太たちに迷惑かけにゃならんのが気がかりでよう」
とタケ夫が言うと、幸司は
「その時は、颯太君を通じて僕たちも出来る限り支援しますから、安心していつでも頼ってください」
と、プロらしい発言をした。タケ夫は、
「そうか?それなら安心だ。ありがとう。その時は、よろしく頼むよ」
と言い、冷めたお茶を一口飲んだ。
その夜は、幸司と和美が交代でろうそくの番をし、2人でたくさん花江との思い出を語り合った。
「母ちゃん、早く父ちゃんのところに行きたかったんだろうね」
「そうかもね。夫婦って、片割れを亡くすと心にぽっかり穴が空くから。僕たちが側にいても、きっと寂しかったんだと思う。和美、もし僕が先に逝っても生き急がないでゆっくり来てくれていいからね」
「なに、幸司さん。まだそんな話早いって。やめて、縁起でもない」
「ごめんごめん、こんな時に。そうだね。僕たちは一緒に、いつまでも長生きしよう」
「うん。私がボケても幸司さんがボケても、2人でずっと側に寄り添っていようね」
と、和美と幸司は肩を抱き合った。そばでは、和典がかわいい顔で眠っていた。
翌日。葬儀も無事に終わり、タケ夫たち家族は焼き場からそのまま自宅に直帰して行った。
残された叶は、何をどうしていいのか?分からなかったが、幸司と和美は仕事柄慣れているためか、
「叶ちゃん、これからしばらくバタバタするからごめんな。これから少しずつ母ちゃんの物を整理していくから、手伝ってもらえると助かるんだ」
と、淡々と叶に指示をくれた。
和美さんだって、本当は花江さんがいなくなって寂しいはず。だけど、いつまでも悲しんではいられないのかもしれない。私たちは今、ここにこうして生きている。生きている者は、先に進まなければいけない。
叶は、自分もいつまでも悲観していてはいけない!と、和美たちと一緒に典文や花江の分まで、これからの人生を楽しんでいこうと心に誓った。