(15)


3月も中旬になり、叶はアパートに引っ越した。土日は実家に帰省するが、平日はアパートで生活し、ここから大学に通う予定だ。

アパートは3階建てで各階に4部屋ずつあり、叶の部屋は2階の203号室。階段から3つめの部屋だった。両隣にも入居者がおり、階段に近いほうの202号室には、別の大学に通う同学年の子が入居したらしいが、生活リズムの違いからか、ほとんど会うことがなく、たまにすれ違っても軽く挨拶をする程度だった。

もう片方の隣の204号室には、同じ大学の2年生が入居していて、なんと叶と同じ学部の先輩だということが分かった。名前は、赤沢珠紀さんという。叶が挨拶をすると

「そうなんだ!何か分からない事があったら、いつでも聞きに来てね」

と、笑顔で快く対応してくれた。どことなく、雰囲気がリノに似ているような気がしないでもなかった。



次の土曜日。

「学部の友だちが遊びに来るから、よかったら紹介するよ」

と、叶は珠紀にお茶に誘われた。

週末は実家に帰省する予定だったが、まだ部屋の片付けも残っていて、叶は母親に

「週末帰省するのは、大学が始まる4月からにしてほしい」

と頼んでいたので、バイトも大学が始まってから、叶の都合や体調の良い時にいつでも来てもらったらいいと返事をもらっていた。


珠紀の部屋に入ると、そこには珠紀の他に2人の女性がいて、そのうち1人の顔には、見覚えがあった。その人が叶に気づき、驚いた声を上げた。

「あれ、叶ちゃん!久しぶり。同じ大学に入ったの?」

(和美さん!)

「和美、叶ちゃんと知り合いだったの?」

「うん。私の親戚の男の子と付き合っているんだ」

「そうだったんだ。じゃあ良かったね」

そう言い珠紀が

「紅茶とコーヒーどっちがいい?」

と聞いたので叶は紅茶をお願いし、お菓子を食べながらみんなで自己紹介をした。

和田和美さんは、ディズニーシーで自己紹介を済ませていたので、今回が2度目ましてになるが、出身が東北のほうだというのは初めて聞いた。だから少し訛りがあったのか。

叶の隣の部屋の赤沢珠紀さんは、東京出身だと言った。喋った感じはとても柔らかく、おっとりしていた。もう一人の友だちは、伊藤美緒さん。彼女も東京出身で、珠紀さんと中学時代からの友だちだそうだ。話した感じは、美樹に似ていた。

叶が3人に対して自分の障害のことを伝えたが、和美はもちろん、珠紀も美緒も叶のことを悪く思ったりはしなかった。それが叶にとって、すごく救いになった。

「こういう心理学の勉強していると、叶ちゃんみたいな人もいるからね。無理に改善させようとするプログラムをやる人もいるみたいだけど、それで余計に病気とか障害が悪化することもあるから、私はその人がそのままでいいって言うなら、周りも温かく見守ってさ、気にしなきゃいいじゃんって思うんだよね」

と、美緒が言った。

今後の進路の話になり、4月から新3年生になる3人は早めに就活をしなければならないようで、それぞれに珠紀は

「小学校のスクールカウンセラーを目指している」

と言い、美緒は

「産業カウンセラーになりたいと思っている」

と言った。東北出身の和美は

「大学を出たら田舎に戻って、地元のじいちゃんやばあちゃんたちの話を聞いて回れるような仕事をしたいと思っているんだ」

と話した。

そして、今後ますます高齢化社会が進み、核家族化や地域の過疎化がひどくなれば、家にひきこもりがちなお年寄りも増えてくるだろう。そうしたら、彼らの安否確認や支援をする人がいなくなる。それを少しでも防いで、せめて自分が出来そうなことで高齢者の役に立ちたいのだと和美が言い、3人それぞれが自分に合った素晴らしい夢を語った。

珠紀から

「叶ちゃんは?」

と聞かれ、叶は高校時代にファミレスで清花たちに語った夢を珠紀たちの前でもメモに書いて伝えた。

「なるほど、そういう道もあるのか!うん、いいね。なんか叶ちゃんらしい」

「失声症のある人ってそんなに数が多くないから理解も進んでいないし、叶ちゃんみたいな人が増えてくると、どんどん失声症に関心を持ってくれる人も増えてくるかもね」

「でも、学校に行きながらケーキ屋のバイトもって、頑張るね。無理しないようにね」

と、みんなから心配や励ましの声をかけられた。



部屋に帰ると、さっそく颯太にLINEをした。

「颯太、そっちの生活はどう?少しは慣れた?私のほうは、アパートの隣の部屋に同じ大学で同じ学部の2年生が入居していて、仲良くなった。それでね、なんとその人の友だちに和美さんがいたの。ビックリ!和美さんも同じ大学・学部だったんだね。颯太、知ってた?」

すると颯太からは、長い返事が来た。

「え、そうなの?和美姉ちゃんがそっちのほうの大学に行っているとは聞いていたけど、まさか心理学部だったとは知らなかった。そういうの、あんま詳しく話さないから。でも叶、同じ学部に顔見知りがいてよかったじゃん♪

あ、そうだ!叶、前にお前が絵で賞もらった時、俺が「デートできる券やる」って言ったの覚えてる?

あれ、今度使ってもいいか?もしよかったら、月末に水族館行かない?4月になったら、お互い忙しくなるし。チャンスは今しかないと思う」

 そうだった。高校生の時、叶が『県高校絵画・彫刻コンクール』に出展した作品が絵画部門で『審査員特別賞』を取り、そのご褒美として颯太から「俺とデートできる券やる」と言われたのだ。

あれから卒業までいろいろとバタバタしていて、颯太も叶も、そのことを今まですっかり忘れていた。

少し迷ってから、叶は

(いいよ。楽しみにしている)

と、イルカが跳びはねるスタンプを付けて送った。

4月まで、あと2週間。もうすぐ叶は、大学生になるのだ。なんだかふわふわソワソワとした不思議な気持ちを抱えながら、叶は夕方早めに風呂に入った。



3月最後の土曜日。

叶は、颯太と水族館の前で待ち合わせていた。朝からいい天気で、今の時期にしては少し暑いくらいの陽気だったので、叶は薄手の白のロングTシャツに柔らかい素材のベージュのスカートを履いてきた。

颯太は同じくロングTシャツにジーパン、脱ぎ着がしやすいチェックの薄い上着を着ていた。

ディズニーシーで会った時に比べて、少しだけ精悍になった気がする。

それを颯太に伝えると

「そうか?自分ではあんまり分からないけど。叶は、なんかスッキリした感じがする。背伸びた?服のせいかな?」

と言って照れ笑いをした。


叶が障害者手帳を持っていたので、2人で割引チケットを買い、入館する。

館内で色とりどりの魚を観て歩き、クラゲのコーナーでは、そのゆったりした動きに癒やされ、時間が経つのも忘れて2人でしばらく眺めていた。

軽食を取り、午後からはメインステージでイルカのショーを見物して楽しんだ。



せっかくだからもう少し一緒にいたいと颯太が言い、結局叶は、夕食まで颯太と付き合うことになった。

「叶のアパートの近くまで送っていく」

と言う颯太と初めて手をつなぎ、一緒に海辺近くの公園を歩く。緊張と恥ずかしさで火照った顔に、夕暮れ時の風が涼しくて気持ちいい。

少しずつ灯りが灯っていく海辺のベンチに2人で座った。

「もうすぐ俺は専門学校生で、叶は大学生か。なんか、大人になるってまだ実感がない」

(うん)

「俺頭悪いから、勉強についていけるかどうか自信ないけど。技術だけはしっかり身につけられるように、頑張ってみるよ。叶も自分のペースで進んでいけばいいからな」

(うん)

それから颯太が黙ったので、静かな時間だけが流れる。

何だろう?何かが始まりそうで、ドキドキする。その時、颯太が

「叶」

と短く言い、叶のほうに近づいてきた。

(!!!!)

今、何が起きた!?叶の頭の中はパニックでいっぱいだったが、唇には確かに、何か柔らかいものが触れた感触があった。

そう。叶は今、颯太に初めてのキスをされたのだ。心臓がバクバクと激しく音を立てている。颯太は恥ずかしそうに笑いながら、

「ごめん、今なんか緊張して上手くいかなかった。もう一回だけしていい?」

と聞いてきた。叶は、今起きたことがよく分からなかったこともあり、今度はきちんと受け止めたいと思い、目を閉じてそれを待った。颯太の唇が触れる。温かかった。

2度目のキスは、少し長い時間触れあった。唇が離れると、颯太は優しく

「叶、大好きだよ」

と言って、頭をなでてくれた。叶は今、超絶幸せな気分だった。



叶をアパートの近くまで送り届けた颯太は、最終の新幹線で帰っていった。

叶はLINEで

(今日は、ありがとう。楽しかった)

と打ち、続いて

(颯太のキス、恥ずかしいけど嬉しかった。私も颯太が大好き。ずっと一緒だよ♡)

と、ウサギが照れているスタンプを送った。

颯太からも犬が恥ずかしがっているスタンプが送られてきた。

その日のノートに今日の出来事を書いていいものかどうか?叶は迷ったが、結局何も書かなかった。というより、書けなかったのだ。

こういうことは文字にするより、心の中にひっそりと、大切な想い出として残しておくほうがいい。

今日は興奮して眠れそうにないなと思いながらも、叶は布団に入った。

案の定、しばらくは目を閉じてもなかなか寝付けず何度も寝返りを打ったが、いつの間にかウトウトし始め、そのうち深い闇の中に引き込まれていった。

2人の恋を応援するように、夜空には無数の星がキラキラと瞬いていた。