(6)


2年になって数ヶ月が過ぎ、席替えがあった。席決めはクジ引きで行われた。

入口から1列目の1番前の席に熊沢美樹が座り、その左隣に叶が座った。美樹は図書委員で、ロングヘアーで眼鏡を掛けており、いかにも読書が好きといった感じの真面目で大人しい女子だ。

他のクラスメイトたちも順々にクジを引いていったが、久美子が叶の後ろの席の番号を引いたらしく、

「私、メシ子の後ろ嫌なんだけど~」

と大声で言った。

メシ子というあだ名は、少し前の弁当バラバラ事件から、久美子たち一軍女子たちの間でいまだに継続されているようだ。見かねた麻里香が

「じゃ、私と交換して」

と、一番後ろの席の番号と交換した。そして、叶の後ろの席は麻里香になった。ただ、叶の斜め後ろ、美樹のすぐ後ろの席が颯太になったのは、いささか不安ではあるが。



それからしばらくは皆、何事もなく過ごしていた。

ある日の休憩時間、美樹が読書をしていると、後ろの颯太が絡んできた。

「熊沢さ~ん、何読んでんの?それ面白い?」

隣で次の授業の準備をしていた叶は、なんとなく嫌な予感がした。そして、颯太がしつこく美樹に話しかけていた時、颯太の手にキラリと光るものが見えた。次の瞬間、

「!!!!!!」

(ポタ、ポタポタ)と、床に鮮血が垂れた。颯太が持っていたカッターの刃で、叶の左手の甲が切られたのだ。

「!ばっ、杉原お前アホか!」

「キャーーーー!」

「杉原さん、大丈夫!?誰かティッシュ、ティッシュ!」

「田原、何やってんだよ。謝れよ」

教室中が、騒然となった。そこへ

「お~い、授業始まるぞ。席着け」

と、担任の竹内が入ってきた。

女子の一人が

「先生、大変です!杉原さんが」

と告げ、竹内も教壇に教科書を置き、

「どうした?」

と返した。

男子の一人が状況を説明し、竹内が叶たちに近づき様子をうかがう。

「いや、俺はただ」

と、颯太が言い訳をしようとするが、竹内がすぐさま指示を出し

「保健委員、(杉原を)保健室に連れて行ってやれ。今から自習にする。おい田原、ちょっと来い!」

と、颯太を教室から引っ張り出していった。

「杉原さん、行こう」

と女子保健委員の戸田さんが、叶を支えながら保健室に付き添ってくれた。

後に残された生徒たちは、しばらく呆然としていたが、久美子が床に残った叶の血を見て

「えぐっ!」

と発したのを皮切りに、それぞれに今起きた出来事について話す声が広がっていった。

その場に居づらくなった美樹は、机に開いて置いていた本と鞄を持って、教室を飛び出した。

「あ、逃げた」

と冷笑を浮かべる久美子たち。

清花たちは叶が心配だったが、とりあえず今は自分たちに出来ることをしようと、床に残された血を綺麗に拭いて掃除した。


しばらくして、竹内が教室に戻ってきた。

叶は保健室で手当をしてもらっていて、そのまま静養したのち母親に迎えに来てもらうということだった。叶の鞄は、あとで誰かが保健室に届けるようにと指示がされた。

「田原君は、どうなったんですか?」

と学級委員の紗英が聞いた。

「田原は、玉村先生と相談して、明日から1週間の自宅謹慎になった。まぁ、あんなことがあったからな。

みんなもいろいろ思うことがあるだろうが、杉原と田原が安心して戻ってこられるように、今まで通り接してやってほしい」

「先生、熊沢さんが帰りました」

と誰かが言った。

「そうか。熊沢もショックを受けているだろうから、後で先生が電話をしてみる」

そのまま竹内の授業は自習となり、次の6時間めの授業は竹内の配慮により中止とされ、2年2組は他のクラスより早めに下校となった。



叶の鞄を届けに、清花と朱莉が保健室に行った。

入るとベッドに叶が座っていて、その左手には痛々しく包帯が巻かれていた。

「叶、大丈夫?・・・じゃないよね」

「鞄、先生から頼まれた。田原くん、明日から1週間自宅謹慎だって」

と朱莉が、竹内から聞いた話を伝えた。

颯太が、なぜカッターを持っていたのか?という点については、朝、母親とつまらないことでケンカをしてムシャクシャしていたので、誰のものでもいいから傷つけて憂さを晴らそうと思い、たまたま前の席だった美樹の本が目に入ったので、切り刻んでやろうと思った、ということだった。

そして、それを寸前で止めに入ったのが、美樹の隣の席の叶だったというわけだ。

なんて幼稚な理由なんだろう。そんなくだらないことで、自分がケガをしなければならないとは。

叶は暗い顔で2人を見つめたまま、清花と朱莉に抱きついた。清花たちは、そんな叶の背中を優しく撫でた。その後、晴海が迎えに来たので清花たちは挨拶をして、それぞれの部活に向かった。



夕食の少し前、颯太の母親である菊子が謝りに来たが、叶は出なかった。代わりに母親が対応してくれ、

「あんなバカ息子だけど、これからもよろしく頼む」

と言って帰ったらしい。お詫びの印として、菊子からまんじゅうを渡されていた。


夕食後、いつものお茶会。

晴海はパート先で竹内から連絡をもらい、早退させてもらったらしく、

「事情を話したらね、店長さんが『叶ちゃんに食べさせてあげてくれ』って、持たせてくれたの」

と言って、フルーツたっぷりのロールケーキを丸ごと1本持って帰って来ていた。悠介と叶の前には、取り分けられたケーキと、先ほど菊子が持ってきたまんじゅうが1つずつ、皿に載っていた。

今日の飲み物は、レモンティーだ。

晴海は、頬杖をついて叶を見ながら言った。

「叶、しんどかったら学校無理して行かなくていいんだよ。高校行かなくても、生きていく道なんていくらでもあるんだから。何なら、お母さんと一緒にケーキ屋で働いてみる?」

叶は、少し考えて首を横に振った。そして、父と母にこう伝えた。

(学校辞めるのは簡単。だけど、それじゃせっかく仲良くなった清花たちに会えなくなる。それは嫌だ。私は、清花や麻里香、優奈、奈緒、朱莉たちと一緒に卒業したい!

それに、今ここで中退して逃げたら、河野さんたちの思うつぼ。私が負けたみたいになるから悔しい!私は、大丈夫だから)

「そっか。叶がそう思っているなら、お母さんたちは反対しないよ。でも何か困った時は、ちゃんと相談してね。お父さんもお母さんも、叶の味方なんだから」

レモンティーを飲んでいた悠介も、ボソリと言った。

「颯太君のしたことは、きっと許されない事なんだと思う。お父さんたちは、その場を見ていないから分からないけどね。ただ、それをどう受け止めるか?は、叶自身が決めればいい。叶の人生は、叶のものだから」

叶がうなずく。

「叶、明日学校休んで病院に行こう。その傷がひどくならないように、一応診てもらっておいたほうがいいでしょ?その後で、久しぶりにお母さんと買い物でも行こう。たまには気晴らししないと、元気出ないよ!」

と、晴海がにっこり笑って励ましてくれた。

「いいなぁ~、女性陣は。たまには僕も連れて行ってよ」

と悠介が不満をこぼしたが、晴海に

「またそのうちね」

と笑顔で軽くあしらわれていた。

久しぶりに母親と買い物に行けると分かり嬉しくなった叶は、照れ隠しに皿の上のまんじゅうとケーキにがっついた。

それを見ていた母親から

「やだ、叶。そんな急いで食べなくても誰も取らないよ。まだたくさんあるから、ゆっくり食べな」

と言って笑われた。


その日は色々あって疲れていたので、交換日記は休止にした。

また店に行ってリノに会ったら、今日のことを話そうと思って、早めに布団に入った。

夢には、あの白猫が出てきた。もう少しで顔が見えそうだというところで、叶は深い眠りに落ちていった。



翌日、母親と一緒に整形外科で診てもらったが、幸い思ったほど傷は深くはなかったので、1~2週間もあれば治るだろうということだった。消毒をしてもらい、包帯を巻き直してもらった。

傷口を清潔に保つため、1日2回は消毒とガーゼ交換をするようにと言われ、病院を出た。

その後、2人でショッピングモールに行き、ファストフード店での軽食を挟み、あちこちでのショッピングを楽しんだ。

かわいそうだからと、父親にはビールとつまみを土産に買い、叶は包帯が取れた後の傷跡を隠す目的で、指先が出るタイプの薄手のかわいい手袋を買ってもらった。


次の日学校に行くと、清花たちが寄ってきて心配してくれたが、叶は病院で言われたことを伝え、ショッピングで母親に買ってもらった手袋を見せ、(大丈夫!)と笑顔でみんなを安心させた。



昼休憩。

いつものように叶が校舎裏のベンチに行くと、先客がいた。あの日、叶がケガをする要因となった熊沢美樹だった。

朝からずっと気まずかった叶は、そのまま立ち去ろうとしたが、美樹が気づき

「あ、杉原・・さん・・」

と、控えめな声で引き留められた。

振り返ると、美樹が(来て)というふうに、ベンチを指していた。

おどおどと美樹の隣に座ったが、しばらくは沈黙が続いた。叶は、持ってきた弁当を開けて食べ始めた。

思い切ったように美樹が、ぽつぽつと話しかけてきた。

「この前は、ごめんね。私のせいで・・・痛かったよね」

叶は、何も反応できない。

「私もびっくりした」

それだけ言うと、美樹も食べかけていたサンドウィッチをかじった。静かな時間が流れる。

弁当を食べ終えた叶は、お茶を一口飲んでから今の思いを紙に書いた。

(痛かったけど、私は熊沢さん・・・美樹ちゃんの大切な本が傷つけられなくてよかったと思う)

そこで一旦メモを見せ、

(颯太のしたことは、たぶん許せない。しょうもない理由で人のものを傷つけるなんて、幼稚で最低。だからもう、颯太のことは相手にしない。するつもりもない。あれは、私がそうしたくてしたことだから、美樹ちゃんは何も悪くない。だから、気にしなくていい)

と伝えた。

美樹は、泣きそうになる気持ちを抑えながら

「ありがとう、叶ちゃん」

と感謝を伝えた。

叶は、美樹が横に置いてある本が気になった。叶も小学生の頃に読んだことがある、児童向けのファンタジー小説だ。叶の視線に気づいた美樹が聞く。

「叶ちゃん、本好き?」

(うん。子どもの頃からけっこう読んでる)

「そうなんだ。どんな本が好き?良かったら教えて。私図書委員でよく図書室にいるから、いつでも来てくれていいから。本の話出来る人いないから、叶ちゃんが良かったら、いろいろ話してみたい!」

(OK♪)

と示し、教室で話していると周りに気を遣うから、叶の気が向いたら図書室に行くことを伝え、会えたら話そうと約束した。



数日後。

帰りに颯太の家の近くを通ると、颯太がビニール袋を持って帰ってきたところだった。

うっすらとジュースや菓子類が透けて見えたので、どうやらコンビニ帰りらしい。

「あ・・・」

と颯太。

叶は無視して通り過ぎようとしたが、颯太に話しかけられた。

「この前は、悪かった。わざとじゃなかったんだ。まさか、お前が手を出してくるなんて思わなくてさ。

帰ってから、父ちゃんにはブン殴られて、母ちゃんにもこっぴどく叱られたよ。「このバカ息子が!」って。

でも、俺が殴られた痛みより、杉原のほうがもっと痛かったよな。俺のなんて、比じゃねぇよ」

叶は、背中から聞こえてくる声を黙って聴いている。

「俺、中学の頃から杉原のこと意識するようになってさ、高校になるとやっぱ、そういうのあるじゃん?うまく言えないけど」

そこで叶は、なんとなく分かってしまった。要は、男の子が好きな女の子にわざとイジワルをするという、あれだ。

叶は、複雑な気持ちだった。

「学校で、俺と河野が付き合ってるって噂あったじゃん?それ全くの嘘だから。俺、そもそも河野みたいに気の強いやつ全然タイプじゃないし。って、どうでもいいよな?

俺のしたことは許されないと思う。杉原も、俺のことが嫌いになったと思う。嫌われても仕方ないことをした。だからもう、学校ではただのクラスメイトとして杉原のこと見るし、必要以上に話しかけないから安心して」

そこまで聞いて、叶は振り向いて颯太に近づいた。そしてメモに一言書いて見せた。

(1発だけ殴っていい?私と美樹ちゃんの分)

颯太は一瞬驚いた顔をしたが、渋々うなずいて覚悟を決めた。

「よし、来い!」

「バシッ!」

叶が颯太の頬に平手打ちをして、気持ちのいい音が響いた。

「って~~~~」

と、目に涙を浮かべながら颯太が笑った。

(ざまぁ~みろ)

と、叶はほくそ笑んだ。

「あ、そうだ。これやるよ」

そう言って颯太は、袋の中から自分用に買ってきたであろうコロンの箱を出し、叶にくれた。

性格に似合わず、かわいい菓子が好きなんだなと、どうでもいいことを思った。

そして颯太は照れ隠しなのか、背中を向けて

「じゃ、また明日な」

と、叶に手を振って家に入っていった。今日は、颯太の自宅謹慎処分最後の日だったのだ。

叶はコロンを鞄に仕舞い、日の傾きかけた道を家に向かって歩き出した。



その日の交換日記には、こんなふうに書いた。

(リノさん、こんばんは。いろいろあったので、日記をお休みしていました。ごめんなさい。

少し前に、左手をケガしました。でも傷はたいしたことなくて、1~2週間もあれば治るそうです。

傷を隠すための手袋をお母さんに買ってもらいました。今度見せますね♪

それがきっかけで、また1人友だちが出来ました。私と同じで、本を読むのが好きな図書委員の女の子です。今度、図書室で会ったら本の話をしようと約束しました。

あと、ずっと気まずかった幼なじみの男子と、少しだけ距離が縮まりました。(私がそう思っているだけかもしれないけど?)

あ、でも全然好きとか、そういうんじゃないですよ!むしろ、幼稚で最低なやつなので、嫌いですけど(笑)

また今度、ゆっくりお店に行きますね。あの白猫は、まだいますか?)


(叶ちゃん、こんばんは。ケガ大変だったね。でもひどくないなら、本当によかった。手袋楽しみにしているね。そっか、友だちもできたんだね。もしよかったら、いつかその子と一緒にお店においで。私も会ってみたいな、叶ちゃんのお友だち。

幼なじみの子は、叶ちゃんのことが好きだったのかな?男子って、本当に幼稚でちょっとスケベで、最低なところあるよね。きっと男の子って、思春期はみんなそうなんだと思う。またお店に来たら、ゆっくり話聞かせてね。

白猫は、毎日店の庭を行ったり来たりしています。猫って、きまぐれでいいなぁ~って思うよね。じゃあ、またね。おやすみ、叶ちゃん)

と言って、リノさんの返事が終わった。

叶は、美樹を誘って次の土曜日にでも『カフェlino』に行ってみようと思った。

夢の中では、ほんの少しだけど白猫の距離が近づいていた。

顔は見えるが、星空を見上げている。叶が触ろうと手を伸ばしたら、逃げていった。

(惜しい!お店に行ったら会えるかな?)

と淡い期待をして、深い眠りについた。


ノートを閉じるリノの左手の甲には、もうほとんど目立たなくなったが、うっすらと白い線のような傷跡があった。