「遺されたものが伝える生きた軌跡…」
8月は、戦争を考える月でした。
今年は、八十二文化財団主催の講演会で、昭和13年に満州への分村移民をはじめた長野県の「大日向村」(現、佐久穂町)が企画され、興味深く学びました。
母村と分村が共に成り立つために、国策として行われた満州移民。
その後、移民政策と戦争が並列して進み、満州移民に大きな悲劇を生み出しました。
講演中、大日向村の当時の村長のお孫さんが、偶然、隣に座っていらっしゃいました。
祖父とは直接、会うことはなかったといい、孫という世代は、祖父の生前の姿を知らないことが多いものだと、ここでも再認。
私も、祖父の姿を知らずに育っています。
先月、お話をお聴きした竹久夢二の孫、竹久みなみ氏も生まれた翌年に夢二が亡くなったそうです。
歴史の中にいた祖父の存在。
国策という、国民にとっては従うことが正道のような人生の基本方針に沿って生きた祖父です。
叔母の遺品と一緒に持ち帰った祖父のたくさんの賞状は、インフラ整備の最前線で行動した軌跡をあらわしていました。
3代目は、かろうじて先々代の生涯を身近に伝えられるポジションです。
満州移民が国を挙げて勧められた昭和14年、朝鮮総督府に技師として務め、設備の設計をしていた祖父。
戦後は、広島の電話設備復興や国内の農業振興として農事放送施設普及の基盤整備を行い、各地の農業協同組合から感謝状をいただいていました。
戦後、国策として開拓された八ヶ岳山麓の野辺山開拓農業協同組合発起人で理事も務めた祖父の軌跡が、私の中でさらに深まりました。
私の終活は、“断捨離”前に行う、次世代に遺すべきものの整理です。
私につながる3代のファミリーヒストリーは、農業の歴史と並列して編纂しようと思います。
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