地の塩 世界の光


マタイ5:13〜16

あなたがたは、地の塩です。

もし塩が塩けをなくしたら、

何によって塩けをつけるのでしょう。

もう何の役にも立たず、外に捨てられて、

人々に踏みつけられるだけです。

あなたがたは、世界の光です。

山の上にある町は隠れる事ができません。

また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。

燭台の上に置きます。

そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、

人々があなたがたの良い行いを見て、

天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。


塩には、料理に味をつけ、

新鮮さを保つ働きがあります。

クリスチャンの塩けとは、

親切な言葉と行いです。


コロサイ4:5〜6

外部の人に対して賢明にふるまい、

機会を十分に生かして用いなさい。

あなたがたのことばが、いつも

親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。

そうすれば、

ひとりひとりに対する答え方がわかります。


光には、明かりをもたらし、

周りが見えるようになる役目があります。


詩篇89:15

幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。

主よ。彼らは、

あなたの御顔の光の中を歩みます。


クリスチャンの光とは、

イエス様の光を反射する光です。

イエス様に心を向けて従う時、

栄光から栄光へと、

イエスと同じ姿に変えられていくのです。


「一隅を照らす」という言葉があります。


アフガニスタンで

貧しい人々のために働かれた

中村哲先生もまさにそうでした。

アフガニスタンの人を

なんとかして助けたいと思ったのです。

自分は、お医者さんなのに、

用水路建設のために尽力され、

農業のために、とても大切な水を届けたのです。

自分の名声ではありません。

有名になることではありません。

召されるまで、先生のことを、

多くの人は知りませんでした。

中村哲先生の座右の銘は、

「一隅を照らす」です。

まさに一隅を照らしたのです。


人々が、神様を信じる私たちの良い行いを見て、

天の父なる神様が、

あがめられることを願っておられます。


周りの人の霊的な目が開かれて

神様の存在を信じるようになるためです。


1 地の塩、世界の光とは、神様が私たち一人一人に

期待していることを表しています。


詩篇65:4

幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、

あなたの大庭に住むその人は。

私たちは、あなたの家、

あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。


私たちは、神様に選ばれたのです。

期待されているのです。

その意味で、地の塩であり世界の光なのです。


家庭において、職場において、学校において、

地の塩、世界の光は、私たちなのです。


花嫁なる教会の型であるエステルは、

ユダヤ人の救いのために、

いのちをかけました。

その時代の、地の塩、世界の光は、

エステルでした。

エステルには、星という意味があります。

エステルは、神の教会のひな形です。


イエス様の福音は、私たちの手にあります。

その福音の種を蒔くことによって、

私たちは、豊かな実を結ぶのです。


マルコ4:20

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、

三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」


2 地の塩、世界の光とは、

神様への期待感に満ちあふれる生活です。


神様への期待感は、

私たちの言葉に表れます。

私たちの信仰は、

告白する信仰なのです。


ヘブル3:1

そういうわけですから、

天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。

私たちの告白する信仰の使徒であり、

大祭司であるイエスのことを考えなさい。


神様に期待感を持って、

希望を告白しましょう。

天の資産、驚くべき資産を私たちは、

受け継ぐのです。

この地上にいる時から、

その資産を受け取るのです。

大きく期待しましょう


ヘブル10:23〜25

約束された方は真実な方ですから、

私たちは動揺しないで、

しっかりと希望を告白しようではありませんか。

また、互いに勧め合って、

愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、

いっしょに集まることをやめたりしないで、

かえって励まし合い、

かの日が近づいているのを見て、

ますますそうしようではありませんか。


詩篇81:10 

わたしが、あなたの神、主である。 

わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。 

あなたの口を大きくあけよ。 

わたしが、それを満たそう。


私たちは、父なる神様を信じています。

神様を信じる者にとって、

この地上における人生という旅路は、

父なる神様の家族として生きているのです。

神様は、家族思いのお父さんです。


予期せぬ出来事に遭遇することがあります。

いつか、セミナーに出席するために

京都に行ったことがあります。

ホテルについて、家内と二人、フロントに行きました。

私が名前を告げたところ、

フロントの係りの方が申し訳なさそうに言いました。

「申し訳ありません。

実は、あなた様にお貸しする部屋を間違って

別の方に貸してしまいました。」

この言葉に内心驚きました。


このホテルがそんなことをするだろうか???

そして、その次の言葉にもっと驚きました。

「それで申し訳ないのですが、

スィートルームでよろしいでしょうか。

お値段は、普通のツインの値段で結構です。」

私は、頭の中で、スィートルーム、スィートルーム

と繰り返しました。

一体、どういう部屋なんだろうと思いました。

なぜなら、今まで、

スィートルームなんて泊まったことがないからです。

ボーイさんに連れられて行ってビックリです。


広い部屋が二つあって、応接間のような部屋があり、

大きなソファーもあり、ベッドルームも広いのです。

お風呂も大きいのです。多分、宿泊費も相当するでしょう。

普通のツインの値段で、そこに泊まったのです。


家族思いの神様がお父さんだと

こういうことが起きるのです。

私たちは神様の家族なのです。


期待感に満ちあふれる言葉を、

告白しましょう。

神様は、家族思いのお父さんです。




聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会を引用