神は私たちとともにおられる


マタイ1:18〜25

クリスマスは、キリストの祭りという意味の言葉で

イエス様の誕生を、お祝いすることです。

12月25日は、後世の人が定めた日で、

正確ではありませんが、私たち人類にとっては、

イエス様がお生まれになったことが、大事なのです。

それは新しい創造の始まりなのです。


ガラテヤ6:15

割礼を受けているか受けていないかは、

大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。


1 奇跡は、起きます


1:18~20

イエス・キリストの誕生は次のようであった。

その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、

ふたりがまだいっしょにならないうちに、

聖霊によって身重になったことがわかった。

夫のヨセフは正しい人であって、

彼女をさらし者にはしたくなかったので、

内密に去らせようと決めた。

彼がこのことを思い巡らしていたとき、

主の使いが夢に現れて言った。

「ダビデの子ヨセフ。

恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。

その胎に宿っているものは聖霊によるのです。


イエス様の誕生は、奇跡でした。

聖霊によって、マリヤは、身ごもったのです。

奇跡は、起きます。


ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授は、

整形外科医としては、

うまくいきませんでしたが、

ip細胞の研究で成功しました。

先生の人生も奇跡です。

その研究は、体の皮膚から細胞を作り出すという、

思いも掛けない研究なのです。

私たちの人生には、

思いも掛けない素晴らしいことが起きるのです。

 

北海道出身のナイトdeライトという

4人のクリスチャンバンドが、

現在、活躍しています。


最初、ナイトdeライトは、3人でバンドを組んで、

やることにしたが、肝心のボーカルがいませんでした。

ベースの長沢さんは、すぐに、この人だと思ったが、

自分からは連絡を取りませんでした。

そして、このように願ったのです。

「自分からは、連絡しない。しかし、平野が、

ナイトdeライトのボーカルなら、

あいつから、連絡して来るはずだ。」

そうしたら、平野さんから連絡があったのです。


神様は、私たちの願いを聞いておられるのです。

また、神様の愛を伝える歌を歌おうと、

やり始めた時に、願ったことは、

一人でもいいから、その年のうちに、

キリストの愛を知る人が出ることでした。

すると、第一号は、ボーカルの平野さんだったのです。


彼が、イエスを信じたのです。

4人が心を合わせて、

キリストの愛を伝えるバンドになったのです。

 

プリンス・オブ・エジプトの主題歌は、

「信じるときに、奇跡は起きる」です。

エジプトで奴隷だったイスラエル民族には、

全く希望がありませんでした。

毎日、毎日、絶望的な日々でした。

しかし、神様には、救いの計画がありました。

神様は、モーセを遣わして、奇跡的に救い出しました。

 

2 罪から救ってくださる 


1:21

マリヤは男の子を産みます。

その名をイエスとつけなさい。

この方こそ、

ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」


私たちは、自分に失望します。

自分の情けなさにウンザリするのです。

ナイトdeライトの曲に、証という曲があります。

その中の詩に、


 一人じゃもう進めないよ 

どんなに頑張ってみても


 というフレーズがあります。

この曲を作った平野さんは、

自分の証を歌にしたのです。

誰にでも、このような体験は、あるでしょう。

 

私は、若い頃、倉敷の水島という所で、

製油所に勤めていました。

ある日、気持ちは落ち込んでいました。

お酒を飲んで、友だちと別れました。

歩いて寮まで帰る途中、市営プールが、ありました。

真夜中でしたが、柵をよじ登って、

プールの中に飛び込みました。

服を着たまま泳ぎました。

身も心も疲れていました。

また、柵をよじ登って帰らなければなりません。

本当に惨めな思いでした。

何をやっているのだろう。

一人で、寮の近くのブランコに腰かけて、

つくづく、惨めだなと思いました。

 

罪から救ってくださるというのは、

どうしようもない状態から

救ってくださるという意味です。


罪を犯すから罪人なのではなくて、

罪びとだから、罪を犯すのです。

わかっちゃいるけど

やめられないというのが、

私たちの姿なのです。

イエス様を信じると、

イエス様が心の中に来られて、

私たちの内側から、

きれいに掃除してくださるのです。

内側から力があふれてくるのです。


コリント第二5:17

だれでもキリストのうちにあるなら、

その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、

見よ、すべてが新しくなりました。


3 神様は、私たちとともにおられます


1:23

「見よ、処女がみごもっている。

そして男の子を産む。

その名はインマヌエルと呼ばれる。」

(訳すと、神は私たちとともにおられる、

という意味である。)


神の御子イエス様は、

神様がともにおられることを証明するために、

この地上に来てくださいました。

神様が人となって生まれてくださいました。

 

ある牧師先生が、福祉が進んでいるという

イギリスの老人ホームを訪ねました。

とても立派な建物でした。

その建物の中に入った時、

一人のご老人が首に何かを下げていました。

そこに、一つの文章が、書かれていました。

「私に話しかけてください」と書かれていました。

どんなに素晴らしい施設であっても、

人の共通の願いは、愛されることです。

 

神様の愛は、形となって現れました。

神様は、人に話しかけました。

その記録が聖書です。

そして、人々を救うために、

神様は人となって、来られました。

その方が、イエス様です。

神様の愛を実証するために、

イエス様は、生まれたのです。

イエス様は、人を愛して生涯を生きられました。

そしてついに、

すべての人類の罪を背負って十字架にかかられました。

誰でも、イエス様を信じることによって、

神様が共におられることを、体験するのです。

 

以前、家内の実家では、のりをつくっていました。

ある朝、母が、海で海苔の作業をしていると、

霧が深くなったので、帰ることにしました。

岸の方に向かっていると思ったら、

沖に向かって歩いていたのです。

水かさが増してきて、このままだと倒れて死んでしまう。

その時、だばという胸まである

作業用の長靴を身につけていました。

それを急いで脱いで、やむなく、

海苔のさおにしがみつきました。

「神様、助けて、死ぬわけにはいかない。」と

叫んだそうです。


水が増してきたので、

流されるままにしたところ、

海苔用の船が見えました。

それにしがみついて乗っていたら、

数時間後、

その船の所有者が来て助かりました。


母は、その時、

まだクリスチャンではありませんでしたが、

時々、教会に来ていました。その時、歌われていた、

「主がわたしの手を」という

聖歌をおぼえてよく歌っていました。

まさに、主がわたしの手をとってくださいますを

体験したのです。


神様が共におられるというのは、

単なる思い込みではありません。

現実なのです。

インマヌエル

神はわたしたちとともにおられるのです。



聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会を引用