二人は一人


創世記35:29    

イサクは息が絶えて死んだ。

彼は年老いて長寿を全うして

自分の民に加えられた。

彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。


イサクが死にました。その時、

エサウとヤコブが彼を葬りました。

エサウとヤコブは、

兄弟ですから、当然のことですが、

この二人の関係を知っている人であるなら、

びっくりすることでしょう。

この二人が、一緒に、お葬式をしたの?


20年ぶりにカナンの地に帰って来たヤコブを

エサウは、喜んで迎えました。(創世記33:4)

ちょうど、放蕩息子を迎えるお父さんのように迎えたのです。


ルカ15:20

こうして彼は立ち上がって、

自分の父のもとに行った。

ところが、まだ家までは遠かったのに、

父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、

走り寄って彼を抱き、口づけした。


エサウは、以前、父イサクが死ぬ時に、

ヤコブを殺そうと思ったぐらい

恨んでいました。(創世記27:41)

しかし、

今は、ヤコブのことを心から赦して

受け入れているのです。

しかも、自分の住んでいたカナンの地を

ヤコブにゆずり、

自分はエドムの地に行きました。(創世記36:6〜7)


ヤコブには、多くの欠点がありましたが、

しかし、一つの明確なことがありました。

どんなことがあっても、

神様を信じ続けたという事実です。

強いうえ渇きを持つことが、

どれほど大切であるかを、

ヤコブの生涯を通して知ることができます。


神様を信じ続けることによって、

どんな素晴らしいことが起きるのでしょう。


1 神様の愛を体験します。


ヤコブは、神様のみ顔を拝しました。

(創世記32:30)

その場所は、ペヌエルと言います。

意味は、神様のみ顔という意味です。

顔と顔とを合わせて神を見たからです。


ヤコブにとって、

神様は、いなくてはならない存在でした。

強いうえ渇きを持って、

いつも、神様を求めました。


では、

逆はどうでしょうか?

神様にとって、

ヤコブはいなくてはならない存在でしょうか?

神様にとって、

私たちは必要とされる存在なのでしょうか?


答えは、そうです。

神様は、ヤコブを必要としています。

神様は、私たちを必要としています。

実は、

イエス様の十字架は、そのことを表しています。


ヨハネ3:16

神は、実に、

そのひとり子をお与えになったほどに、

世を愛された。

それは御子を信じる者が、

ひとりとして滅びることなく、

永遠のいのちを持つためである。


「十字架ととびだしナイフ」という本があります。

これは実際の出来事です。

デビッド・ウィルカーソン先生が、

ニューヨークの貧民街で伝道を始めた頃、

ある日、

一人の麻薬中毒患者と思える女性が、

先生の家に、

飛び込んできました。


そして、先生の台所の包丁をつかんで、

自分ののどにつきつけ、

「もう私はダメだから、死ぬ。」と叫びました。

とっさのことで、

先生たちは、何をしていいのかわかりません。


その時、先生の奥様が、彼女に向かって言いました。

「神様は、あなたを、必要としていますよ。」

ゆっくり、やさしく、

「神様は、あなたを、必要としていますよ。」

そのように語りかけ、

自殺を思い止まらせました。


私たちは、よく、「神様が、必要だ。」

「神様の助けが、必要だ」と言います。

また「あなたには、神様が、必要だ。」というのです。

確かにそうなのですが、


聖書は、その逆を言っています。

神様があなたを必要だと、

言っているのです。


神様は、あなたを愛しています。

あなたの存在そのものを愛しているのです。

あなたの存在を、必要としているのです。

どれぐらい必要としているかというと、

十字架で命を捨てるほど必要なのです。


十字架は、あなたが必要であることの、証明です。

「神様!私が必要だという証明を示してください。」

と、私たちが叫ぶなら、

神様は、静かに、

十字架を指し示すでしょう。


神様を信じ続けることによって、

神様との個人的な関係が確立するのです。

神様の愛を体験するのです。


神様を信じ続けることによって、

2 家庭が回復します。


コリント第二5:17〜21

だれでもキリストのうちにあるなら、

その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、

見よ、すべてが新しくなりました。

これらのことはすべて、神から出ているのです。

神は、キリストによって、

私たちをご自分と和解させ、

また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神は、キリストにあって、

この世をご自分と和解させ、

違反行為の責めを人々に負わせないで、

和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。

ちょうど神が私たちを通して

懇願しておられるようです。

私たちは、キリストに代わって、

あなたがたに願います。

神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、

私たちの代わりに罪とされました。

それは、私たちが、

この方にあって、神の義となるためです。


エサウとヤコブの奇跡的な和解は、

神様が演出しました。

私たちの人生の演出家は、

神様です。


どんなに有名な俳優を集めて映画を作ったとしても、

演出が悪ければ、全く面白くありません。

演出家次第なのです。

神様は、最高の演出家です。

私たちの人生に介入し、

家庭の回復を実現してくださるのです。

それだけでなく、私たちの家族を、

永遠の救いへと導いてくださいます。


イエス様の弟子であるパウロとシラスは、

ピリピという町で、

牢獄の看守に、次のように断言しました。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、

あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

その後、看守とその家族は、

みんなバプテスマを受け救われました。


その流れを見てみましょう。

神様がいかに

優れた演出家であることがわかるでしょう。


パウロとシラスは、

占いの悪霊につかれた女性を解放しました。

彼女の占いはよく当たりました。

すると、その女性を通して

お金を儲けていた主人たちが訴え、

パウロたちは、牢獄に入れられました。

全く、無実の罪です。

しかし、

牢獄に入れられたパウロたちは、

神様に祈りつつ賛美していました。

そこに大地震が起きました。

その地震で、獄舎の土台が揺れ動き、

とびらが全部あいて、

みなの鎖が解けてしまいました。

看守は、囚人たちが逃げてしまったと思い、

自殺しようとします。

パウロがそれを止めます。

そして、看守の家族の救いにつながります。


まるで映画を見ているような出来事です。

もちろん、フィクションではありません。

実話です。

昔のことわざに

「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、

まことにそうです。

小説では、かけないような

不思議な出来事が起きるのです。


イエス様は、なんとかして、家庭を救い、

回復したいと思っておられるのです。

「なんとかして」は、神様のキーワードです。

パウロも告白しました。

何とかして、幾人かでも救うためです。


神様を信じ続けることによって、

家庭は、救われ、回復するのです。


エサウとヤコブ、

二人は一人なのです。

私たちは、他の人がいて、一人前なのです。


神様を信じ続けることによって、

3 神様の祝福を体験します。


ローマ8:32

私たちすべてのために、

ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、

どうして、御子といっしょにすべてのものを、

私たちに恵んでくださらないことがありましょう。


私たちは、神様の持っておられるものを

共有することができます。

ヤコブはハランに行く途中、夢の中で、

はしごを上り下りしている神様の使いたちを 見ました。

神様の祝福を運んでいる天使の姿を見たのです。

この地上にいる今でさえ、私たちは、

神の国を体験しているのです。


イエス様は、主の祈りの中で、

「御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、

地でも行われますように。」

と祈ることを求めています。


みこころがこの地で、

行われることを願っておられます。

みこころを行うとは、

聖書に書かれているみことばを行うことです。

私たちが、みこころを行う時に、

神様の祝福を体験するのです。


ヘブル10:23

約束された方は真実な方ですから、

私たちは動揺しないで、

しっかりと希望を

告白しようではありませんか。


このみことばは、

私たちの告白の重要性を強調しています。

自分の口で、何を言うのかが、

とても大切なのです。


楽しい告白と悲しい愚痴っぽい告白は、

違う状況を生み出すのです。

みことばに従うというなら、

楽しい告白をしましょう。

みこころを行おうとするなら、

希望を告白しましょう。

いつも、素晴らしいことを

イエス様はしてくださいます。

たとい、悪いことに見えたとしても、

良いことに変えてくださいます。

結局は、素晴らしいのです。


私たちは、この地上で

神様のみこころを行って生きるのです。

それが、神様のみこころなのです。




聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会を引用