道は開かれる


創世記22:1〜4 

これらの出来事の後、

神はアブラハムを試練に会わせられた。

神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、

彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

神は仰せられた。「あなたの子、

あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、

モリヤの地に行きなさい。

そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、

全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、

ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。

彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。

こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

三日目に、

アブラハムが目を上げると、

その場所がはるかかなたに見えた。


どうしたことでしょう。

アブラハムへの祝福は、どうなるのでしょう。 

待ちに待った子どもイサクが与えられたのに、

その子どもをささげるなんて。

しかし、神様には偉大な計画がありました。


創世記22:9〜14

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、

アブラハムはその所に祭壇を築いた。

そうしてたきぎを並べ、

自分の子イサクを縛り、

祭壇の上のたきぎの上に置いた。

アブラハムは手を伸ばし、

刀を取って自分の子をほふろうとした。

そのとき、主の使いが天から彼を呼び、

「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。

彼は答えた。「はい。ここにおります。」

御使いは仰せられた。

「あなたの手を、その子に下してはならない。

その子に何もしてはならない。

今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。

あなたは、自分の子、

自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

アブラハムが目を上げて見ると、

見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。

アブラハムは行って、その雄羊を取り、

それを自分の子の代わりに、

全焼のいけにえとしてささげた。

そうしてアブラハムは、その場所を、

アドナイ・イルエと名づけた。

今日でも、「主の山の上には備えがある」

と言い伝えられている。


これは一体、どういう意味でしょう。

ヘブル人への手紙を読むと

次のように書かれています。


ヘブル11:17〜19

信仰によって、アブラハムは、

試みられたときイサクをささげました。

彼は約束を与えられていましたが、

自分のただひとりの子をささげたのです。

神はアブラハムに対して、

「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」

と言われたのですが、

彼は、神には人を死者の中から

よみがえらせることもできる、

と考えました。

それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。

これは型です。


これは型です。と言われていますが、

何の型でしょう。


1 十字架の贖いの型です。

神の御子イエス様が、私たちの身代わりとなって、

十字架にかかってくださった型なのです。

実際にイサクの代わりに、

神様によって羊が用意されていました。

バプテスマのヨハネが指し示した

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

と言われたイエス様の型なのです。(ヨハネ1:29)

驚くべきことに、約2000年後、

イエス様の十字架は、モリヤの地に立ったのです。


エペソ1:7

この方にあって私たちは、その血による贖い、

罪の赦しを受けています。

これは神の豊かな恵みによることです。


2 信仰によって救われることの型です。


ローマ4:1〜3

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、

どうでしょうか。

もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、

彼は誇ることができます。

しかし、神の御前では、そうではありません。

聖書は何と言っていますか。

「それでアブラハムは神を信じた。

それが彼の義とみなされた」とあります。


ガラテヤ3:8〜9  

聖書は、神が異邦人を

その信仰によって義と認めてくださることを、

前から知っていたので、アブラハムに対し、

「あなたによってすべての国民が祝福される」と

前もって福音を告げたのです。

そういうわけで、信仰による人々が、

信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。


アブラハムへの祝福は、

誰に受け継がれるのでしょうか?

アブラハムへの祝福は、

キリストを信じる者に与えられるのです。


3:13〜14

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、

私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

なぜなら、

「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」

と書いてあるからです。

このことは、アブラハムへの祝福が、

キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、

その結果、

私たちが信仰によって

約束の御霊を受けるためなのです。


3 私たちにも、道が開かれる型です。


どんな人でも例外なく問題の中を通るでしょう。

しかし、道は、開かれるのです。


明治時代、

佐賀県伊万里市出身の森永太一郎さんは、

アメリカで陶器を売るために渡米しました。

ところが、まるっきり売れなかったのです。

絶望的な状態で公園のベンチに腰掛けました。


すると、一人の婦人が隣に腰掛け、

バッグからキャンディを取り出し

彼にすすめました。

それを食べたところ、

あまりにも美味しかったので、

洋菓子職人になることにしました。


すぐには、菓子職人の道は開かれませんでした。

当時、日本から移民して渡米する人もいたのですが、

人種差別が激しく

家の庭職人のような、下男や女中の仕事しかなかったのです。

ところが、下男の仕事で働き始めた家が、

とても熱心なクリスチャン老夫婦で、

親切で、太一郎を対等に扱い、

その態度に太一郎は、感動しました。

それで彼らの信じているイエス様に心を開きました。

キリストの福音を聞き信じました。

その後、お菓子づくりの技術を身につけて帰国し、

日本で、お菓子の製造販売を始めました。

現在の森永製菓の始まりです。


陶器がまったく売れないという試練の道で、

森永太一郎さんは、脱出の道を発見しました。

道が開かれたのです。


コリント第一10:13

あなたがたの会った試練はみな

人の知らないものではありません。

神は真実な方ですから、

あなたがたを、耐えられないほどの試練に

会わせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、

試練とともに脱出の道も備えてくださいます。


聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会を引用