☆登場人物 楊香蘭(ヤン・ヒャンラン) →イメージ女優 キム・ユジョン
15歳 宗州島で生まれ育つ。両親を亡くし、妓房の行首に引き取られ、養われる。
崔韓秀(チェ・ハンス) イメージ俳優→ チャ・ウヌ
23歳 都生まれの都育ち。名家の貴公子、哀しい過去を持つ。
~遊女として女として。18世紀朝鮮を風のように駆け抜けた少女の生涯~
2024年夏、新シリーズ始動!
新連載 韓流時代小説
春望【春を待つ】~a certain marmeid 's love~
~朝鮮王朝期、本土から遠く離れた宗州島で繰り広げられるピュアで切なく、哀しい恋物語~
楊香蘭は15歳。6歳で両親を失い、二歳下の妹玉蘭と共に妓房に引き取られた。月日は流れ、美しい舞姫となった香蘭は、早くも男たちが水揚げさせて欲しいと殺到するほどの美少女に成長した。
香蘭には夢があった。それは、いつか相惚れとなった男に晴れて嫁ぐことだ。だが、いずれ妓生になる宿命の香蘭は、けして見てはならぬ夢であったー。
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香蘭は淡く微笑んだ。
「のんびりと海を眺めていたから、刻の経つのも忘れていたみたい」
前回の逢瀬の時、逆に遅くなった香蘭に対してハンスが返した言葉だ。通常は待っていないと応えるものなのに、正直に告げた彼にかえって好もしさを感じた。
香蘭と同様、ハンスもあのときを思い出したに相違ない。女よりも美しいのでは思う秀麗な顔立ちに微笑が立ち上っている。
「これは一本取られたな」
現実は、のんびり海を眺めていたどころではなかったのだが、この際、嘘も方便といったところだ。
ハンスが罰の悪そうな表情で言った。
「出がけになって、急に役人が訪ねてきてね」
香蘭が小さな声を上げた。
「まあ」
役人というからには、この宗州島の役所から様子見にいったに違いなかった。〝模範的囚人〟ということで、彼には二年前から監視も無くなり、定期的に役人が監視の名目で巡回に来るとは聞いていた。が、改めて聞くと、やはり、この男は〝科人〟なのだと思わずにはいられない。
香蘭でさえ、彼が一体、どれほどの罪科を犯したのかと憤りを憶えるのだ。当事者たる彼の口惜しさは察するに余りあった。
気遣わしげな香蘭の視線を感じたのか、ハンスは笑った。
「監視といっても、別に何をされるわけでもない」
役人はただ茶を飲んで世間話をして帰ってゆく程度だという。香蘭は、それでも何か、もやもやとしたものを感じてしまうのだった。
ハンスは事もなげに言った。
「向こうも仕事だからな。他愛もない世間話をするためだけに、わざわざ舟で虎島まで来るんだ。かえって気の毒だと思うくらいさ」
香蘭が肩をすくめた。
「あなたって、どうしようもないくらいのお人好しね」
ハンスが今度は声を上げて笑う。
「お人好しは嫌いかい?」
途端に、香蘭の白皙が染まった。
「べ、別に嫌いっていうわけじゃないけど」
ハンスが笑いながら、香蘭の熟れた頬をつつく。
「そなたも負けないくらい、どうしようもない正直者だな」
香蘭はさりげなく彼から距離を置き、軽く睨んだ。
「気安く触らないで欲しいわ」
ハンスが一段と楽しげに笑う。香蘭は、むうと頬を膨らませた。
「からかってるのね。前言撤回、あなたはお人好しじゃなくて、どうしようもない意地悪だわ」
ハンスが眩しげに眼を細める。
「香蘭は表情のよく変わる娘だな。憂いを帯びて大人びているかと思いきや、童のように拗ねる。そういうところも可愛くて、惚れ直してしまいそうだよ」
香蘭は更に頬を熟れさせる。
「惚れ直すってー」
ハンスが臆面もなく言ってのける。
「私の想いは先日、余すところなく伝えたはずだ」
海風に含まれた花の香りが俄に濃くなった。そう感じるのは、彼がすぐ側にいるせいだろうか。飛燕草(デルフィニウム)ー、花が翼をひろげる燕に似ていることが名の由来だといわれている。宗州島に古くから自生する美しい花だ。
二人が立つ海岸と緑の大地の境目辺りにも、飛燕草が海岸線に沿って至る箇所に咲いている。涼やかで凜とした見かけにそぐわず、刺激的蠱惑的な香りが特徴的だ。
ハンスが砂浜に座ったので、香蘭も並んで座った。それこそ子どものように二人ともに膝を抱える。
花の香りが満ちる大気に、打ち寄せる波の音だけが静かに響いている。三日月が紫紺の空に浮かび、静かな光を海面に投げかけていた。

逢わなかった間、互いに起こったことを話し合い、話題は〝夢〟に移った。
ハンスが瞳を伏せ、呟くように言った。
「香蘭には夢があるか?」
それは香蘭にとっては、いささか予期せぬ話題ではあった。香蘭は小さく首を傾げ、彼を見つめた。
「ハンスは夢があるのね?」
訊ねるからには、彼には誰かに語りたい夢があるのだろうと察したのである。
ハンスが微笑(わら)った。
「質問に質問で返すのは卑怯だぞ?」
香蘭は余裕の笑みで返した。
「心配しないで。あなたの夢を教えてくれたら、私もちゃんと話すから」
ハンスが眼を開き、改めて彼女を見つめる。かなりの至近距離で見つめ合うことになり、香蘭の鼓動が煩く跳ねる。彼に気付かれなければ良いのだけれど。
「私は学堂を開きたい」
香蘭は大きく頷いた。
「先生になりたいの?」
ハンスが笑顔になった。
「ああ、その通りだよ」
香蘭は言葉を選びながら続けた。
「あなたの一族は高官を輩出した名門なのでしょう。官僚になりたいとは思わなかったの?」
ややあって、自分が失言をしてしまったことに気付いた。
「ごめんなさい。私」
今のハンスは流人の身だ。彼の立場で仕官などできるはずがない。ある意味、香蘭の指摘はとても残酷なものだ。
ハンスは静かな笑みで応えた。
「別に気にしないから、大丈夫だ。香蘭、私は実のところ、都にいる頃から祖父や父のように官僚になりたいとは微塵も考えたことがなかった。まだ子どもの時分から、学堂を開いて子どもたちに教えるのが夢だったんだ」
香蘭は幾度も頷いた。
「素敵な夢ねえ」
ハンスが照れたような表情になる。また、香蘭の鼓動が煩くなった。夢を語る彼の横顔は生き生きとして、少年のような屈託なさがまたいつもとは違う魅力を感じさせている。



