第二の戒め「神の啓示」 | めぐみキリスト教会

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人はパンだけで生きるのではなく神の口からでる一つ一つのことばによる。
               新約聖書マタイの福音書4章4節

 今日は、出エジプト記20章4節~6節までのところか「神の啓示」と言う題で、十戒の第二の戒めから学びたいと思います。

 

 第二の戒めは「自分のために偶像を造ってはならない」と言う、いわゆる偶像礼拝を禁じる戒めです。この二の戒めは、第一の戒めと同じだとカトリック教会やルーテル派の教会は考えますが、全く違う戒めです。

 

 具体的に何がどう違うのかと言うと、第一の戒めは、私たちが信じ従う神は誰であるかということを教えているのに対して、第二の戒めは、主なる神様を正しく知り、正しく礼拝することを求めている戒めなのです。

 

 そこで大切なことは、「偶像を造ってはならない」とあります様に、偶像の本質は何かということを理解しておかなければなりません。

 

 私たち日本人に限らず、人間は、何か神々しいものを見るとつい拝んだり信仰の対象にしたりしてしまいます。富士山も「霊峰富士」と言って、信仰の対象として神聖視したりします。また、美しん神仏につい手を合わせたくなるものです。

 

 勿論、そう言った神仏を拝むということは、偶像礼拝として退けなければなりませんが、それ以上に、私たちが警戒しなければならない偶像は、もっと別のところにあると聖書は教えます。

 

 4節をご覧下さい。ここにそれを知る手がかりとなる言葉があります。それは「自分のために」と言う言葉です。ですから、偶像と言うものは、木や石や金属で造られた物に限るのではなく、自分のために、自分の都合に合わせて神様を思い描き、それを神と信じ拝もうとすることが偶像礼拝の本質だと聖書は教えるのです。

 

 それでは、私たちが正しい神を知り、正しく礼拝するためには何が大切であるのかと言うと、それは、自分が知っていること、感じていること、考えていることによって神様を知ろうとすることをしないことが大切です。

 

 では、どうすれば正しく神を知ることが出来るのかと言うと、それは、神のことは神様ご自身が示してくださることによってしか知ることが出来ないのです。それを神学的用語を使うと「神の啓示」と言います。その「啓示」によってはじめて私たちは、神を正しく知ることが出来るのです。

 

 では、神様は何によって私たちにご自身を掲示して下さるのかと言うと、それは「み言葉」です。そのみ言葉による啓示の完成としてこの世に来られたのが、主なるイエス・キリストです(ヘブル1:1~3)。そのみ言葉によって、神がどんなに愛に満ちたお方であるのか、聖いお方であるのか、恵み豊かなお方であるかということを知ることが出来るのです。

 

 では、私たちはそのお方をどのように礼拝すべきかと言うと、聖書は、神は霊なるお方であると、つまり、人の目には見えないお方であるのにどういう風に礼拝するのか、難しい問題ですね、しかし、その点についてイエス様は私たちに教えています。

 

 ヨハネ4章24節をご覧ください。「霊とまことによって礼拝しなさい」と言うのです。これはどういう意味かと言うと、宗教的儀式的な人間の側で作り出した礼拝ではなく、幼子サムエルのように「主よお語り下さい、しもべ聞きます」と祈ったように、心へりくだって主の前に出ることを意味しているのです(詩篇51:17)

 

 と言うのは、当時の宗教指導者たちは、自分たちは律法を守っているから礼拝者にふさわしいと、自分の義を盾に主の前に出ていたのです。あるいは、俺たちはアブラハムの子孫だということで主の前に出ていたからです。それでは霊とまことによる礼拝ではありません。

 

 最後に、なぜ偶像を造ってはいけないのかと言うと、人間がどんなに知恵を絞って真の神を造ろうとしても、、不可能だからです。逆に、真の神のお姿を歪めてしまうことになるからです。