愛と律法 | めぐみキリスト教会

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人はパンだけで生きるのではなく神の口からでる一つ一つのことばによる。
               新約聖書マタイの福音書4章4節

 今日は、出エジプト記201節~21節までの所から「愛と律法」と言う題で、み言葉から恵みを頂きたいと思います。 

 

 出エジプト記と聞くと、紅海での神の奇跡を思い出す方が多くおられるかと思います。紅海の水が二つに分かれ、その乾いた地を歩いて対岸に渡るという、映画の「十戒」でのシーンが目に浮かびますが、実は、出エジプト記の中心はそこではなく、十戒が記されている20章がこの書簡の中心なのです。

 

 この十戒は、神の民の生きる基準を示し与えたものですが、それ以上に、神のご性質そのものが示されているのがこの十戒なのです。それは何かというと、神様がいかに聖いうことが、この律法の厳粛さによって示されているのです。

 

 私たちは、自分が住んでいる日本がどういう国であるかを知るためには、その国の憲法を見るとよく分かります。そのように、この十戒は神の民の生きる基準を示し与えたものですが、それ以上に、神のご性質そのものが示されているのがこの十戒なのです。それは何かというと、神様がいかに聖いお方であるかと言うことが、この律法の厳粛さによって示されているのです。 
 

 そこで今日は、「十戒」全体についてみてみたいと思います。この十戒は二つの内容によって構成されています。一~三の戒めまでは、神と人との関係について、四~十の戒めまでが、人と人との関係についての教えです。 


 ただ、気をつけて頂きたいのは、神様との関係がうまくいっていなくても、人と人との関係ができていればそれでもいいのではと思われることです。そうであってはいけないのです。神様との正しい関係があって人と人との関係も作られてくるというのが聖書の教えなのです。十戒を公式に表すと、3+7=すべて、10-3=0という公式になります。

 
 そして、私たちがこの十戒、つまり律法に触れると何を感じるのかと言うと、恐れと抵抗感ではないでしょうか。また、温もりよりも冷たさを感じることでしょう。

 
 しかし、勘違いしてはならないのは、神様の戒めであるこの十戒と言うのは、私たちを縛るためにあるのではなくて、神の愛がその土台にあって、私たちを教え戒め成長させるために与えられた尊いものだという事を忘れてはなりません。

 
 私たちはしばしば、「愛」と「律法」と言うのは相反するものであり対立するものだと考えてしまいますが、それは正しい理解ではありません。私も小さい頃、母から「あれは駄目だ、これは駄目だ」なんて言われて、煩いなと反抗したものでしたが、大人になって思うと、それは自分のことを思っての事だったんだと、逆に親の愛に触れ感謝したものでした。

 
 ですから、愛と律法は対立関係にあるのではなく、互いに助け合うものであり決して切り離して考えるような性質のものではないというのが、聖書の教えです。

 
 もし、この愛と律法を切り離してしまうとどういう事が起こるのかと言うと、愛のない律法は、人の欠点や失敗を指摘して裁くだけで、決して人を生かすものとはならないのです。私たちの信仰生活が形だけで愛の実践がないと、キリストの良き香りを放つどころか煙たがられるだけになってしまいます。そうあってはいけません。

 
 逆に、律法のない愛も困ったもので、しつけをしない子育てや、行くべき道を示さない子育てになってしまい、未熟な大人になるのが目に見えています。こうであってもいけません。

 
 最後に、この十戒が私たちにどういう益をもたらすかを見てみましょう。三つあります。
 ・十戒を通して、私たちは生ける神の前に立たされるという益です。
 ・キリストの身丈へと成長させてくれます。
 ・クリスチャン生活を輝いたものにしていただくという益です。
 

 その様に、神様は私たちを愛するがゆえに、この十戒(律法)を与えてくれたのです。エペソ5章8~9節