尊い器であれ | めぐみキリスト教会

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人はパンだけで生きるのではなく神の口からでる一つ一つのことばによる。
               新約聖書マタイの福音書4章4節

2024年、皆様の上に神様の豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。

 新年礼拝のみことばとして、Ⅱテモテ2章20節~26節までのところから「尊い器であれ」と言う題で、みことばから恵みを頂きたいと思います。

 

 テモテへの手紙は、使徒パウロがエペソの教会の指導者であったテモテに書き送ったものです。実は、パウロがこの手紙を書き送った数日後に、ローマ皇帝ネロの迫害によって殉教するわけです。ですから、この手紙はパウロからテモテに対する遺言的な手紙であるとも言われています。

 

 今まで自分は、キリスト者としてどう生きて来たのか、そして、テモテに対しても教会に指導者としてどう生きるべきかと言うことを、切実に語っている手紙なのです。

 

 では、パウロはテモテに何を一番願ったのかと言うと「尊いことに使われる器であれ」(20~21節)と言うことです。これは、私たちクリスチャン一人一人に対する神様の願いでもあると言うことを、心に留めておいて下さい

 

 それでは、どうすれば私たちは、尊い器として神に用いて頂くことが出来るのか、と言うことにいてについて見てみましょう。

 20節をご覧下さい。ここの書き出しは「大きな家」とありますが、これは私たちの住まいを指しているのではなく、教会を指しているのです。ご存知の様に、教会には子どもからご年配の方まで、何世代にもの人が集っている所ですので、大きな家と言ったのでしょう。そして、そこに集っている人を「器」に譬えたのです。

 

 そして、ここをよく見るとパウロは教会の中には様々な種類の器があって、尊いことに用いられる器と卑しいことに用いられる器があると言っています。皆さんもご自分のお家の中を考えてみて下さい。きっといろいろな器があることでしょう。その中には、普段使う器と大切なお客様が来たときに使う器とを区別しているのではないでしょうか。

 

 それと同じ様に、私たちクリスチャンも区別されているのだと言うのです。クリスチャンだからと言ってそれだけでは神様の大切な働きに使ってもらえるのではありません。パウロはここで、そのことを教えているのです。

 

 それでは、尊い器とそうでない器をどこで見極めるのか、その基準をしっかりと理解しておく必要があります。金や銀が塗られていれば尊い器かと言うとそうではありませんから。

 

 それでは、見極める具体的な基準は何かというと、21節をご覧下さい。ここで注目したいのは「きよめて」と「離れる」と言う言葉です。

 

 例えば、ここに最上級の器があるとしましょう。しかし、その器が手入れされていなくて汚れていたりしていると大切なことのためには使わないと思います。ですから、神のお役に立つ尊い器と言うのは「きよめられている」と言うことが第一の条件です。

 

 そして「離れる」と言うことです。21節には「これらのことから離れて」とありますが、これは、前の節の方でヒメナオとピレトと言う人たちのことが出ています(17~18節)。彼らは下品な事や異端的な教えを信じていたということが分かります。そうした下品な事や異端的な教えから、しっかりと離れていなければならないのです。

 

 私たちクリスチャンは、どれだけきよめられているか、汚れから離れているか、それが大切なのです。新しいこの一年、神に用いられる尊い器として、神に栄光を帰す歩みをしてまいりましょう。マタイ5章14節~16節