瑞雲寺、小早川陣跡に思いを馳せる | しきなベイベー☆Shake it up baby!

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シアターキューブリック俳優、敷名めぐみの
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10月11日(月曜日)
宇喜多秀家フェスで、演劇「宇喜多秀家物語」を演じた次の日、
私はずっと思いを馳せていた瑞雲寺に伺いを立てた。

瑞雲寺は小早川秀秋公の菩提寺である。
そこは、岡山駅から徒歩20~25分の、
閑静で、昔ながらの家が多い住宅街にあった。
お世辞にも立派とは言えない寺院だが、
よく手入れのしてある庭や、
綺麗にされている木造の縁側、柱をみて、
住職さんがこのお寺を大切にされているのがわかる。

住職さんから何かお話が聞けないかと思い、
ブザーを鳴らすも・・・反応なし。。。

今はまだ会う時ではないということか。

20分後、やはり諦めきれず、
もう一度ブザーを、どうか・・・と、押す。

いらっしゃった!!
どうやら離れにいらっしゃったらしい。

秀秋公のお墓の前で思いを馳せる。
どの様な環境の中で、生まれ、成長し、
多感な時期での、おねや秀吉からの過多なプレッシャーや
その後の態度の急変による困惑。
秀吉の養子でなかったら、戦国の時代に生まれなければ、
そんなことを思ったりしたのであろうか。

少なくとも、自分の存在とはなんなのだろう、
と思ったのではないであろうか。
慶長の役では、16歳での総大将。
周りは戦乱を生きた武将達、
秀吉が信頼した秀秋の養父、隆景は病死し、お飾りの総大将。

19歳、天下分け目の関ヶ原。
要るべき西軍か、自分の存在をみとめてくれていた家康か、
三成が世を統べれば、敵の多い三成、
きっとまだ戦国の世は続くであろう。
それか、死してもまだ秀吉の影から逃げる為なのか。

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一昨日は、関ヶ原、松尾山の小早川陣跡に行きました。
他の陣跡は違い、本当に山!山の山頂にある。
上るだけでも、結構苦労しました。
陣跡前の45度に近い角度の階段を上ると、
そこから見える景色は・・・関ヶ原が一望できます。
戦況が一望出来、また攻めるには難しい場所。
本当なら総大将がいるはずの場所であろう。
秀秋公はここから何を見て、どう思ったのか。

関ヶ原の戦い後、同じ養子として育った宇喜多秀家の治めていた、
岡山を治めることに。
10歳、歳が離れているとはいえ、同じ秀吉の養子として
大坂で、顔をあわせることもあっただろうし、
義兄弟として話もしたことだろう。
その秀家の岡山を継ぐことになる心境は複雑であったのではないか。

21歳、流行病で亡くなったという説もあれば、
肝臓を悪くして亡くなったとも、祟りとも言われている。
関ヶ原以降、結果裏切る事となった秀秋公に対し、
世間の風当たりは厳しかった。
更に、やはり自責の念もあり、
思い悩んだのではないであろうか。
これが秀秋公を深酒に追い込んだという文献は多い。
しかし、この2年間という短い統治期間でも、
秀秋公は検地や農地の整備などを早急に行い、
民からは敬われていたとも聞く。


『小早川金吾秀秋』という本のラスト、
重臣で最後まで秀秋と共にあった平岡が
秀秋の亡骸に一枚の羽織をかける。
それは、朝鮮出兵の時に総大将を誇示するように羽織っていた、
真紅の羅紗の陣羽織であった。


*******戯言***********

重臣たちの想いも、興味深い・・・。
杉原の話は本当、涙なくしては読めない。
平岡も、稲葉も、秀秋、御家を守るために
必死だったと思う。
もし、舞台になることがあれば、ここを出したい。

「秀家と秀秋、二人の主人公・・・いいな。」
と聞いたのは間違いでないといいな。

話変わって、今晩はモスでした。
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