埼玉県 宮本治彦さんより

めぐさん、こんばんは。15日で戦争が終わって75年ですね。以前学徒動員で特攻隊に配属された叔父の話をブログで紹介していただきました。その叔父もその後すぐに亡くなり4つ下の父も先月亡くなりました。
私が生まれたのは終戦から13年、まだ終戦からそれほど時間は経ってはいませんが戦争の直接の傷跡は目にしていません。ただ、都内に出ると傷病兵や救世軍の姿を街角で見ることはよくありました。私の年代は身の回りに、戦争に召集された方がたくさんいます。中学生の時通っていた数学の塾の先生は巡洋艦に乗っていて左腕を無くしました。高校の水泳の先生は近衛師団にいてマッカーサーと会談した時のことを話していました。
結婚してから今の地で初めて自治会の副会長をした時の会長さんも近衛兵でした。2人いたお兄さんは南方で戦死、奥様は故郷の広島で被爆したそうです。仕事場でもある実家に営業に来ていた方は大陸で終戦を迎えましたが、語り合いながら寝た戦友が翌朝には頭を吹き飛ばされていたと話してました。皆さん、淡々と泣くでも興奮するでもなく静かに語ってくれました。
両親も空襲による疎開で千葉や埼玉にいましたが、昭和20年の5月の空襲で同じ日に実家を無くしました。機銃掃射を受けて逃げ回ったり戦後の闇市の大変な話はよくしてくれました。どれだけ悲惨な毎日だったかは東日本大震災や今回のコロナの感染拡大も戦争よりは遥かにマシと言ってたいして気にも止めてないことからも想像できます。
おそらくあと15年もすると直接戦争の悲惨さを体験してきた人もいなくなってしまうでしょう。軍部の暴走や空襲や沖縄、硫黄島、原爆の悲惨さだけに目を向けるのではなく、戦った相手国の兵士も同じ苦しみの中にあったことに少しだけ心を割いてもらえたらと若いリスナーさんに期待しています。日本人は被害者でもあり加害者でもあるのですから。
余談ですが父は終戦の時、与野の軍需工場で戦車を組み立てていたそうです。友人と「負けだな」といつも話していたと言ってましたが4つ下の母は神風が吹いて必ず勝つと信じていたそうです。そんな直接聞いてきたこと、もう少し孫が大きくなったら話してあげるつもりです。では。



75年。時の流れの中で、直接の被害の色は、
色あせ、忘れられていくけれど、
いつもどこかアメリカ頼りなところ
繰り返し問われる慰安婦問題や

「あの時代」から引き継がれていることは
決して、消えてはいないのですよね。

私の父は
立川の軍事病院で、入院中
空襲がかかる度に担架で防空壕に運ばれて、
その度に熱が上がって苦しくなるので、

とある日、病院内に空襲が鳴り響く中、
「もう運ばないでください」と、一人病室に残ったそうです。
そんな日に限って、本格的な爆撃。
病院の壁に亀裂が入って、砂埃が舞って、
「死ぬな」と思って布団をかぶったそうです。
しかし、運よく生き残り、
10個あるうちの、8個の防空壕が大破していたそうです。

むしろ、運ばれていたら死んでいたかもしれない。

そしたら
私も生まれていない。

命ってそういうことですよね。

終戦記念日を
敗戦記念日と呼ぶ人もいます。
生き残った人が作り上げた日本。
東京のビル群を見ると、
今は、空襲の面影すら見えません。

まずは、今、生き残っている命に感謝です。