2011年3月11日


あの、大きな地震がありました。

いわずもがな、東日本大震災


その当日が、ヒプナゴギアのゲネプロ(舞台上での最終リハーサル)

かつて経験したことのない揺れの中、奇跡的にキャスト・スタッフともに、無事会場にたどり着き、
(新幹線で、日帰り大阪予定が発車せず、こちらへ来た人や、歩いて来た人や様々)
そして、余震の中、揺れは治まるものと勝手に信じて粛々とリハーサルを終えました。

終了後
気が付けば、まるで映画のゾンビのごとく、道路には人があふれ

日本橋は、帰宅難民と呼ばれる人達で埋め尽くされていました。人も車も。

「めぐみさんお送りしますよ」とマイカーで来ていたスタッフの女性が声をかけてくれ

難を逃れた…と思ったら、まあ渋滞で車が動かない、動かない!

そして、、20分くらい乗ったかな?くらいの時、車内に突然聞いたことのないような、大音量の「ビビビビビー音」
ガス欠のサインでした。(あんな音初めて聞いたよ)
「ああ、ガソリン入れるの忘れてました、なんとかします、この車脇に寄せて、なんとかしますから!!私は大丈夫です。お2人は、私の事は良いので、なんとか御帰宅してください」

と、私と藤沢氏は、二人、真っ暗な皇居脇の道路に、ほおりだされました。

(もちろん良かれと思って)


春先の寒さに途方にくれながら、7年前です、まだ活用しきれていないスマホを片手に

藤沢氏は、止まっている電車と、動き出した電車を調べ上げ、とにかく、トボトボトボトボ乗れるかもしれない、乗れないかもしれない電車を求めて、地下鉄の駅を目指しました。

こんな日に限って、めったに履かない、ヒールのある靴が足を攻めます。

そして、結構な時間歩いて、わかりました。

なんと

藤沢氏は

マンガのような


方向音痴(´;ω;`)

だったのです。
どれくらいさ迷ったかはわかりませんが、
その長い、長いさ迷いが、演出家と出演者という関係をはるかに超えさせて、
なんともサバイバルを生き抜いた友!のように、
お互いが結束するきっかけには
なったように思います。
(事実今回の私のファーストライブもお手伝いしてもらいましたし)

そんな中
空車のタクシーが奇跡的に通りかかり
「道路は大渋滞で、車は全く動きません、どうなるか知りませんよ」

と言われながらも、車の中で眠ればいい!と乗車して

自宅についたのは朝4:30でした。

まだ幼稚園だったジュニアは、
事態が飲み込めず、目を丸くして起きていて
「もう大丈夫だから」と告げると電池が切れたように
パタンと倒れ込んで、眠りました。

この仕事の、
仕事を優先するという現実と、家族を持つということのバランスを
痛感した瞬間です。

そして次の日、本番の日を迎えるのでした。

つづく