1919年に3.1独立運動という謎の騒動でっち上げればいいその代わり三大賠償拒否(1)データー | 馬徒然ー馬日記

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(朝鮮日報日本語版) 三・一節:国史編さん委が初の公式集計「運動参加者103万人・死者934人」

より引用(日本・韓国は赤ー日本青ー韓国・引用文は緑色で)

ちなみに三大賠償は日本は戦犯じゃなく韓国の敵なんで払わないー1919年建国国家には

(三大賠償)

1923年の韓国のテロリスト≒のちの韓国の英雄とか建国の父名乗る奴匿った朝鮮人スパイの処分

詐欺師ババァー嘘つき慰安婦&1945年の8月15日以降もというなりすましクソ女

徴用工ー出稼ぎ名乗る労働争議≒軍艦島起こしたくっそじじいへの賠償

韓国がでっち上げ⇒正史にする・・・ 韓国の国史編さん委員会調べ

1919年3月1日に起きた日本からの独立運動である三・一運動の当時、80~103万人がデモに参加し、725~934人が死亡したとする集計を明らかにした。日帝(日本帝国主義)による既存資料に基づくデモ参加者数58万人、死者553人を最大で1.7倍上回る数値だ。

1919年3-4月に全国で起きたデモ、ストライキ、休学などは合計で2464件に達し、うちデモは1692件だった

 日帝による強制占領期の資料に基づき、デモの回数を848回と記述してきた。しかし、今回の発表によると、当時のデモは日帝による統計はもちろん、歴史家の朴殷植(パク・ウンシク)氏が1920年にまとめた「韓国独立運動之血史」に記載がある1542件よりも多かった。資料を検討した高麗大のチョン・ビョンウク教授は「日帝の三・一運動関連統計には縮小傾向があり、歴史学界では朴殷植氏の記録を『最大値』としてしばしば引用してきた」とし、今回国史編さん委が集計したデモ件数は、これまで誇張だとされてきた朴氏の数値と最も近いという点でも意味があると指摘した。

 1919年の三・一運動は全国220郡のうち211郡(95.9%)で起きた。地域別では平安南道で3月1-7日、咸鏡南道・北道、慶尚北道、全羅北道で3月中旬、京畿道と忠清南道・北道で3月末にデモがピークに達した。高麗大韓国史研究所のイ・ソンスン教授は「ソウルから遠い平安道、咸鏡道でもキリスト教、天道教などの宗教勢力の組織的運動で急速にデモが始まり、大規模化するケースが多かった」とし、国史編さん委のデータベースでも、三・一運動の全国的、全民族的、全階層的な性格を確認できると分析した。

 忠清北道清州や忠清南道青陽など全国43郡では夜間に山の上で火をたき、
独立万歳を叫ぶ「山上たいまつデモ」が行われた。イ教授は「警察や憲兵の出動が困難で、暴力的な鎮圧を避けやすかったため、デモ参加者の被害と犠牲を最小化しながら、独立と抵抗の声を上げる空間として使われた」

 

ちょんの 基礎数MAX934人・・・覚えとこ。っていうか、逆に、識字率の高い日本貴族の洗脳コントローラーが現場報告で、ここまで、殺人鬼朝鮮人にやられるとっていうか2.8の在日クソガキに呼応してだと、1920年代

以降は日本人警戒するわな朝鮮人に対してテロリストとして