言葉の持つ性質が選別、連署そして差異だと仮定したうえで
それら性質のすべてが暴力である以上、いかなる言葉も暴力であるに違いない。
もう一度そのことに対してしっかりと気を引き締めて、自覚的に言葉を扱うことにしたい。
そう思いました。
言葉ではなく詩を書き、語れるようになりたい。
いつか書いた私のブログ。
http://ameblo.jp/meganesian/entry-11335175022.html
言葉
2012-08-23 00:05:55
テーマ:donner avec
たとえどんなにきれいな言葉であっても
それが言葉である以上、いつも必ず、暴力に違いない。
AKBのあるメンバーに対する殺害予告とみられる書き込みをされた方が書類送検されたという話。
確かにそこに書き込まれていた言葉は直接的なものであったけれど
たとえばGoogle+などでたまに目にする暴言とさほど変わらない、という私の印象。
いやむしろ、一時期、AKBの某メンバーのブログに大量に書きこまれていた罵詈雑言に比べるとまだましなんじゃないかって思える。
そして私も。
こうしてブログを書いている以上、言葉を扱っている以上、
言葉は慎重に扱わなければならないと、改めて。
言葉はいつも選択する、選別する、すなわち切り捨てる。
その切り捨てに、常に自覚的でなくてはならない。
言葉はいつも踏襲する、模倣する、すなわち署名する。
その連署に、いつも意識的でなくてはならない。
そしてまた、考えなくてはならない。
言葉は、そのシニフィエは、いつも必ず、異なるということを。
言葉を扱うにあたり、思考を止めた時、
裸の暴力が、猛威をふるう。
だから私は詩をかこう。
自らの言葉に打ちつけた槓杆、「スタンツァ」。
とはいえその詩形態に支配されるわけではなく、
詩とはエコノミーである、
その意味において、
私は、詩を書こう。
この温かな部屋で。