夕凪の街、桜の国 | Corpus/ou altération en même temps...

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ひっさしぶりに映画の感想文。


「夕凪の街、桜の国」


主演は麻生久美子、田中麗奈。超、超、私得。


この映画をみようと思ったのは、もちろん、8月6日、8月9日という、二つの日付を経たから。


二つの日付が喚起する凄惨な記憶。



原爆。



でも、この映画は、原爆を、その悲惨さを表象し、映像化しようというものではない。


そうではなくて、原爆によって引き裂かれた、「その後の生」を、描こうというもの。



映画の舞台は原爆投下より13年たった広島と、さらに50年を経た東京。


二つの空間的、時間的深淵を越えて続く原爆の傷。


その傷は、どこであろうと、いつであろうと、被ばく者を、孤独に追いやる。


平野皆実(麻生久美子)。屋内で原爆を経験した皆実は、体と心に大きな傷を負ったものの、母フジミと、友人と、同僚と、比較的落ち着いた生活を取り戻しつつあった。ところが、不意に、彼女によみがえる記憶。その記憶は、彼女の幸せを許そうとしない。たとえ同僚の打越に、プロポーズを受けても、体と心の傷が、それを許さない。そして原爆から13年、原爆がその体に刻んだ傷が、いのちを奪う。


平野フジミ。彼女もまた、原爆を経験したものの、死ぬことができない。それは決して幸せなことではなく、娘の死を、家族の、多くの人の死を、観なくてはならないという苦しみを背負う。


石川キョウコ。フジミの息子である旭の妻。ピカ(原爆)を受けた子として、幼いころから差別を受ける。旭との結婚も、被ばくの恐怖を誰よりも知っているフジミはからは、反対され、孤独に沈む。


石川凪生。旭、キョウコの子。七波(田中麗奈)の妹。原爆2世。恋人との付き合いも、その原爆の血のせいで、恋人の両親から猛烈な反対を受ける。


そして、私が演出として評価したいのは、彼女たちの記憶をつなぐための媒介として用いた「かんざし」


皆実からフジミへ、フジミからキョウコへ、「かんざし」の、つまりは「原爆の記憶」のバトンが受け継がれる。


そして最後にバトンは七波に受け継がれる。


そのバトンが意味することを知った上で、彼女は受け取る。


原爆の記憶は、被爆者の傷は、癒えることなく、これからも受け継がれていくとでも言うように。。。



そんな映画。


原爆を表象すること。証言であろうと、絵画であろうと、もちろん映画であろうと、そのことは困難を極める。いや、むしろ不可能である。


だからこそ、この映画のテーマであろう「後の生」として、2人の女性に焦点を当てるというのは、鑑賞者として、観やすい。なぜなら私もまた、「後の生」を生きるものだから。七波とは立場は違えど、同じ視点で、観ることができるから。



そして、「後の生」。私は比較的最近、この言葉を聞いた覚えがある。


「核事故はそれぞれのケースで異なります。しかもそのインパクトは数年で計れるものではありません。政府はいつも正しいことを言うとは限らない。もはや多くの人が故郷には帰れなくなるでしょう。彼らの生活はきれいに切り裂かれてしまった。福島前と、福島後とに。彼らは今後、自らの健康と、子供たちの健康を気遣うことになるでしょう。政府はおそらく、放射線量はそれほど多くはなく、害を与えることはないと言い出すと思います。そして政府はまた彼らに対して賠償を支払う気もないでしょう。彼らの失ったものはもはや計り知れない。」


(拙訳)


3月下旬のAOLnewsの小さな記事。自らチェルノブイリの事故にあい、調査を続けているManzurova氏のインタビュー。


原発事故と、それを受けた私たちの「後の生」。もはや以前の私たちとは、一緒ではない、切り裂かれた生。


私たちは、二重にも、三重にも、「後」を生きていることを、その身に刻む必要があるのかもしれない。



以上。