まいったな。

山口健はハンドルに体をピタっと着けるようにして、フロントガラスの向こう側を窺っていた。

山道である。対面通行の県道が伸びていて、両側は延々と続く森だ。さっきから霧が急に出て来てしまって、ほとんど前方が見えない。

 

霧はほんとうにやっかいだな。

山口は時計をチラッと見てから、呟いた。20時15分。ヘッドライトの光は、厚い霧に包み込むように

散らされてしまってほとんど意味を為さない。ただでさえ山道である。左右にうねり、九十九折りに登っている。

山口は体を縮こませるようにハンドルにしがみついて、ゆっくりと車を進めるしかなかった。

 

はあ、いつもの道を通ればよかったんだよなあ。

ため息とともに後悔が湧いてくる。遠出のドライブの帰りだったのだ。休憩で寄ったコンビニでスマフォを

いじっていたら、一本道かと思っていた県道に分岐があることに気が付いた。

多少遠回りにはなるけれど、走ることが目的なのだし、行ってみるかなと興味が湧いた。

 

山口は、半年前に転勤でこの土地に引っ越して来たばかりなのである。

某大手工作機械メーカーに入って三年目。二年間は本社勤務だったので、都会で楽しくやっていた。

分かっていたことではあるけれど、三年目からは地方の工場勤務を仰せつかったのである。これが、想像以上につらい。山間の町の独身寮に住んでいるのだが、とにかくなにもないのだ。

山、道、町、ロードサイドのチェーン店が集積したところ、イオン、お終い。

生活に必要なものは手に入るが、娯楽がない。それでも最初の数ヶ月は生活の立ち上げと慣れない仕事に一杯一杯で、ある意味考える余裕がなくてよかったのだが、生活が落ち着いてくると、地縁も血縁もないこの土地であと何年間自分の20代を捧げなければならないのか、と思い絶望的になった。それで最近は、会社を辞めることばかりを考えている。

 

あれ、電波ないのかよ。

スマフォのナビを見るとかろうじて一本立っていた電波が消えている。

ナビ自体はGPSなので、モバイルの電波が切れても大丈夫なのだが、さすがに電波がなくなるとは思っていなかった。

よほどの山奥らしい。まあ、これも土産話か。いずれ辞めて都会に帰るのだと思えば、そう割り切れるようになってきている。

田舎暮らしに車は必須だ。転勤してすぐに、なにをおかずにまず車を購入した。山口自身はあまり車の運転が得意なほうではないので正直なんでもよかったのだが、やはり転勤で来ている会社の上司や、年季奉公が明けてご機嫌の前任の先輩からのアドバイスもあり、SUVの少しイイやつを買った。彼らは、悪いことは言わない、車だけは少しいいものを買っておけ、と親身になって説いてくれたのだが、山口は感謝している。確かにそれはそうで、とにかく自動車に乗っている時間が長いのだ。余りにも娯楽がないので、休日にすることはどうしても旅行やロングドライブになってしまう。山口は、金曜日の夜に晩飯を食べながら、行ったことのない場所、道を探してはメモをして、土曜の朝からせっせと出かけていくのである。

 

もう30分か。

段々と不安になってきた。もちろんナビに沿って進んでいるのだが、通り道にあるはずの集落に辿り着かない。

少し前から下りに入ったようだし、そろそろ着いてもいいはずだ。まだ21時前だというのに、対向車も後続車も一切来ない。

街灯もない。霧は相変わらずで、ヘッドライトを怪しく反射している。昼は目的地の名物ラーメンを食べて、どこかの道の駅でソフトクリームを舐めて、夕方に温泉に入って、そろそろ家に帰りつく予定だったのに…。

くそ、腹も減ってきた。

 

困ったな。

行く先を見通そうと、目を細めた先に、赤い光が見えた。あれは看板かな?ほどなく、道沿いの右側に店が見えてきた。

ラーメン屋のようだ。昼もラーメンだったのにという気持ちがないではないが、腹も減ったし、運転もいい加減疲れた。

次に店に行き合うのはいつのことかわからない。チャーハンくらいはあるだろうと思いながら、駐車スペースを示す線もすっかりかすれた駐車場に車を雑に停めた。こんな時間にこんな場所である。他に客はいないようだった。

 

こんばんは。

と、声をかけながら店の引き戸を開けた。秋口の山の中である。服装の油断も相俟って外は意外に寒く感じ、入った瞬間のラーメン屋独特の暖かい湿気が心地よかった。左側にカウンターが8席と厨房、右側は小上がりになっていて、4人ほど座れる低いテーブルが3つ。小さな町中華といった風情だ。

店主はなにか作業中だったのか、背中越しにチラリとこちらを伺って、いらっしゃい、お好きな席へどうぞ!と声をかけてくれた。山口が、一人なんですけど小上がりでもいいですか?と聞くと、またチラッと顔だけを横に向けて、どうぞどうぞ!お客さん一人だけですから!と勧めてくれる。すみませんね、お水だけセルフサービスでお願いしますと言われたので、入り口横にある給水機から水を拾って小上がりに収まった。

小上がりはいい感じに古びた畳になっていて、一日中運転をしていた体をウーンと伸ばしたら、大きなあくびがでた。

なんだかメニューを見るのも面倒になってしまって、作業をしている店主の背中越しにチャーハンありますか?と尋ねると、

はい!チャーハン一丁ね!と声が返って来た。

そういえば、土曜の20時を過ぎている。最近お気に入りのYou Tuberの定期更新日だと気が付いてスマフォをいじるが、相変わらずの圏外だった。店主にWiFiはあるかと念のために聞いたが、やはりないそうなので、その辺に置いてあった雑誌を手に取った。1ヶ月前の週刊文春だ。そうそうそういえば、こいつ不倫してたってニュースがあったな、なんて思いながらしばらく雑誌を読んでいると、足音がして、カウンターの向こうから店主が出てきたようだ。

ああ、お腹空いたなと急に空腹感を思い出しつつ、あとどのくらいで集落に着くか聞いてみようと思った。

お待たせしました!

机に置かれたチャーハンが目に入る。

 

町まであとど。

雑誌から顔を上げて言ったところで、声が出なくなった。

 

チャーハンを置いた店主には、顔がなかった。

短めの髪型、清潔感の余りない厨房着。顔以外の場所はピッタリとはまっているのに、顔だけがツルリと、

親指の腹のようになっている。

 

親指の腹は、

口もないのに、町までですか?と言った。

目も口もないのに、笑っているのがわかった。

山口は、あ”っと声にならない声を出して、店を飛び出した。

 

なんだよあれなんだよあれなんだよ…。

小さな声で呟きながら車に飛び乗りエンジンをかける。追いかけて来ているかと思って店の方を見ると、親指は、場所はそのままで顔?だけをこちらに向けていた。山口はとにかく車を出して、道を猛烈に走った。追われているのではないかと何度も何度もバックミラーを確認したが、相変わらず霧がひどいので、どこまで行っても振り切れたのかがわからない。

山口は車をひた走らせた。

しばらく経つと、車は集落に入った。決して大きな町ではないが、家の灯りも見える。少しだけ落ち着いて、車を路肩に寄せて止めた。スマフォを見たが、もう圏外ではない。通信環境が回復したのを見て、山口はなぜだかひどく安心した。バックミラーとサイドミラーを確認する。何度か深い息を吐いてから、大学時代の親友の相馬に電話をした。いつもだったらどうしたどうしたと直ぐに電話に出て来る暇人なのだが、今日に限って何コールしても出ない。留守電に切り替わったので、なんだよマジでアイツつかえねえ…などと相馬に謂れのない悪態をついて電話を切った。

そうやって少し冷静になって周りを見てみると、あの状況下でスマフォも忘れていないし、靴まで履いている。

少しだけ余裕が出て、山口はフフッと笑った。

 

トントン。

突然助手席側の窓が叩かれた。ビクッとしてそちらに顔を向けると、二人の人影が見えた。こちら側を覗き込んで、こんばんは、と声をかけてきている。見ると、彼らの後ろから車のヘッドライトが照っているようだ。山口は気づいていなかったが、恐らく私道から出て来る車を邪魔するような場所に停車してしまっていたのだろう。

山口はまずかったなと思い、すみませんと謝りながら助手席側の窓を少し開けて、室内灯を着けた。

 

並んで車の中を覗き込む中年の男性と女性には、顔がなかった。

やはり他はピッタリとはまっているのに、顔だけがツルリと削り取られている。

親指の腹は、

口もないのに、どうしましたか?と言った。

目も口もないのに、笑っているのがわかった。

山口は、あ”っと声にならない声を出して、車を出した。

 

おーい、おーい。

親指たちは、どこから出すのか、大きな声で呼ばわっていた。山口は夢中で窓を閉める。あいつらは車を持っている。

バックミラーを見ると、ヘッドライトが道に出て来るところだった。追いかけてくる。必死にアクセルを踏む。

山あいの集落のメインストリートは、道が平坦で真っすぐだった、霧で拡散した光は同心円状に広がって見えてうねうねと光り、山口に距離感を失わせる。とにかく、ヘッドライトはついてくる。

 

なんだよ!なんだよ!あれ!

山口はほとんど恐慌状態で叫びながら車を走らせた。

だんだん人家もまばらになり、街灯も減ってきた。町を抜けて、目の前に真っ黒な山塊が迫ってくる。ヘッドライトはまだ後ろからついてくる。山口は、このまままた山道に入ってしまってもいいものかと考えた。このままあの山の異界に飲まれてしまうのではないか。

そこに、赤い灯が見えた。赤々と光る丸い灯り。無我夢中でハンドルを切り、交番に駆け込んだ。

 

助けてください!

制服を着た警察官が、カウンター越しに背を向けて座っている。更に向こうの奥に繫がる引き戸がほんの少し開いていて、TVがついていた。

 

どうされましたか?

クルリと振り向いた警察官の顔は親指の腹のようにつるりとしていて。

そこには。

グーグルマップが映っていた。

 

親指の腹は、

口もないのに、道に迷われましたか?と言った。

目も口もないのに、笑っているのがわかった。

それから、親指は山口のお気に入りのYouTubeチャンネルにパッと変わって、それから真田太平記の頃の草刈正雄になって。

山口は、あ”っと声にならない声を出した。

 

トントン。

誰かが窓を叩いている。山口が気が付くと、大丈夫か?という先輩の声が聞こえた。ハンドルに預けていた体を起こすと、見慣れた独身寮の駐車場だった。窓の方を見ると、これまた見慣れた先輩の顔があって、顔があることに安心し、全身の力が抜けた。

日曜日の朝っぱらから山口の車のヘッドライトがつけっぱなしで動かないので、心配になって様子を見に来てくれたらしい。

いつもは細かいことにうるさい先輩だが、根はいい人なのだ。外はまだ薄暗いが、朝になっていた。

 

先輩、すみません。ちょっとお部屋にお邪魔していいですか?いま一人は無理です。

山口は事情も告げずに先輩に懇願した。先輩は、ちょっと困った顔をしたが、なにかを感じたのか、朝飯でも食っていけ、と言ってくれた。根はとてもいい人なのだ。

 

山口は先輩の後ろから付いていく。

前を向く先輩の顔はパッと切り替わって草刈正雄になっている。

 

了。