あくまでぼくの説であるが、30歳を過ぎた辺りを境に、高まる人が多いように感じる。

加齢と天皇陛下への崇敬は正の相関関係にあると思うのだ。

ぼくらの世代は上皇陛下のときにそれを経験した。
東日本大震災のビデオ玉音、手術直後の過密なご公務、美智子皇后との仲睦まじさ。きっかけは様々だろう。

神代の時代から連綿と続く、日本人の心のどこかをくすぐるのだろうか。

都の公園を管理する部署の人に以前聞いた話だが、たまーにお忍びで恩賜公園に散歩でいらっしゃるらしい。お忍びとはいえ、当然厳戒態勢で、事前の打ち合わせも万全にする。当日、すべての進路上にある信号は青になり、公園内の道も陛下に合わせて部分的、一時的に人を入れないような措置をとるそうだ。

職員が塞ぐわけだが、塞がれる方は理由がわからないので文句を言う。彼が本当のことを言うわけにもいかず、ご理解くださいなどとヘモゴモやっていると、係の人?が現れて日の丸の小旗を配る。そこにお出ましになる。
さっきまで文句を言っていた人間はみな黙り、お付きの人に渡された日の丸の小旗を目をキラキラさせて振るそうだ。

彼曰く、決してもともとそういう気持ちの篤い人間ではなかったのに(ぼくから見ても昔からどちらかというとリベラルな印象があった男だ)、何度もこういう場面に出会うにつけ、いつも穏やかに同じ調子で誰にでも平等に休むことなく手を振る陛下を見ていて、「あれは俺に向かって振ってくださっているのだ」と思うに至ったそうな。

一君万民、である。
一人の君主に皆がかしずくという意味に勘違いしている人もいると思うが、本来は、「権威は一人であり、その下は皆完全に平等である」という考え方である。ある権威を無理なく受け入れられれば、極めて安定した世界があるわけで、日本の社会的安定性はやはりそこに依拠していると考えるのがフェアな見方なのだろう。

俺に手を振っている、という感覚は、その根幹である。「1」から1億2千の平等な長さ太さの蔓が伸びている。
そういう一対一の関係を、教育を受けないぼくらは、その特異なあり方を、自分で受け入れる準備をしなければならない。

それに三十年かかるのかな、などと思った。