妻の体調は少し良くなったようである。
大丈夫だから外出していらっしゃいとのことなので、出かける。

いつものポレポレ東中野で「主戦場」という映画を見た。いわゆる従軍慰安婦をテーマにしたドキュメンタリーである。

内容的には、9割方知っている内容で、びっくりするようなことはなかったが、まあ、これは解決しないな、というのが率直な感想である。
長い時間をかけて薄めていく以外の対処法が思いつかない。

映画を見て改めて認識を強くしたのは、やはりこの問題は、極めて特殊な経緯を辿って議論をされている単なる従軍売春に従事した女性たちの問題である、ということだ。

論点は多いのだけれど、概ね以下だ。多くの人が昔から言っている話で新しいものはない。
性「奴隷」、「強制」連行、政府または軍の「関与」、日本の「法的」責任の有無、法的責任があったとして日韓請求権協定で解決済と言えるか、である。
日本の立場としては、何れも否または事実関係の認定については定義を明らかにした上で部分的には話合える余地はあるかもしれないけれども、仮に万が一日本に法的な責任があったとしても、戦時下の日本の行為に対する賠償は済んだという条約上の立場は墨守。と、いうことになろうか。

この上の詳述はしないけれど、ぼくの目にはそんなふうに見えているし、そういうことなのだろうと思う。

いくつかの事実と変化があって、過去の主張がそのまま通らなくなり、日韓合意などの本腰を入れた政治的解決を見たことから、韓国の革新勢力が巻き返しに出ているのがいまの状況なのだろう。

詰まるところ、普遍的な戦時下の女性の人権問題、そのアイコンとしてのこの問題、ということに衣替えしたいらしい。もう少し言えば、過去に韓国側が主張していた、トンデモとも言える鬼畜な所業があったという(特に他国と比較しても恐ろしいほどの人権侵害があったという)テイストをなんとなく残しつつ、そうしたいのだろう。たとえば、無理やりの連行、人狩りをしたとか、大陸だけで慰安婦は20万人いたとか、1日5回10回の強姦があったとか、10歳の子がそういう境遇にあったとか、そのような言説についてである。

普遍的な戦時下の女性の人権問題、それ自体が重要なのは論を待たない。その一類型である日本の従軍慰安婦を取り上げるのも、意味があることなのだろう。しかし、やり方次第である。

そうするならば、まず目的をはっきり共有して、どういう事実関係だったかについてしっかり目線を合わせて、対外的な伝え方を変えていかねばならない。歴史的な流れの中での位置づけ、他国の事例との比較、そういうモノとして捉えた場合の法的な対応の必要性などなどである。
そういう意味で、ダラダラと整理整頓せずに今までの運動の延長線上で続ける韓国のやり方は全く適切でない気がする。彼らとしては衣替えをしただけで目的は一緒なので、一貫しているといえば一貫しているのだが。

ゴールポストを動かして、論点をずらすのは、草サッカーの練習試合くらいの舞台なら許されるかもしれない(それでも駄目だと思うが)が、大観衆の中でそれをやろうとするところが、すごいなあと思う。

不幸な時代を過ごしたお婆さんたちがいるのは事実だし、それを否定するものでもないし、情として同胞として義憤を抱くのもわかる。目の前の可哀想という気持ちが先に立つのも普通のことだと思う。

でも、一歩引いて見てみないと、みんなもっと不幸になる。そう思う。