人生で、一番ツラかった事ってなんだろう――。

 

カウンセラーにきっとこの疑問を投げたところで「一番なんて決められないよ」って言うと思うし、実際、一番を決めることが出来るものなんて殆どない。

 

おもちゃ箱を捨てられた、あの学校を休んでいた日。

きっと母親に捨ててやるって笑いながら言われて、眠って、追いかける夢を見た朝。

家に帰れなくなった日の改札前の暑さ。

酒瓶を隠して、父親に蹴られ続けた夜。

怒ることを知らないかのように生きている友人の殺意を含んだ眼差し。

遠回しにお前のようなやつとは暮らせないと祖父に言われた車内。

くだらないことで笑い合えていた友人が何も言わずアカウントを消した事に気が付いた時。

私にとってはこの世で唯一でも、相手は違って、取り残されていく世界。

 

生き続けることよりも死ぬことのほうが、私にはアクティブで、ポジティブで、安心できること。

たぶん、口にはしないけど、こういう人のほうがより増えてると思う。

 

本棚は私の肋骨で、本はその中の臓物。

血液を循環させるように入れ替えるものもあるけれど、動かさないもののほうが多い。だって、それが私を作っているから。

 

カレは私が買う本や、私の本棚を忌み嫌っている事が多かった。

その理由は、本物の死を幾度も目の当たりにして、人が死んだ影響の中で生きて、自分の命もいつ消えてもいいような、そんな生き方をしているからだと思う。

私はといえば、身近な相手の死に姿を一別することすらさせてもらえない人生で、自分の命を消すことに何度も失敗して、自然に朽ちるのを待つことしかできない。

わざわざ自分から死に関することを臓器として取り入れなければ、肋骨の隙間に偽物の死で埋め尽くされる。その違いは、一種の健常者と障害者のようで、気持ちがいいものではないと推察をしたことはある。けど、辞められることではなかった。

 

私は、私の人生に起こるであろう奇跡を使い果たしている。

 

恩師がその回数を数回分、別けてくれていたとしても、自分の死を見届けてくれるのはハエと蛆とゴキブリと、そんな生き物達。

死ぬ場所自体がこの家でなくとも、私が死ぬとき、私が肋骨の中に収めた臓物は他者の手に渡ることはないだろう。そんな瞬間を白昼夢としてよく見る。

 

結局は死ぬことがこわい。でも、生きているのはあまりにもしんどくて、無意味で、あまりにもバランスが良さ過ぎて、どちらも選べない。

 

主治医からよく「調子が良いと感じるときほど気を付けてね」と言われる。

ゲームをしているときなどに褒められると、すぐにミスをする。

誰かと仲良くなれたかもと思ったら、突然お別れすることになる。

 

母とのことで奔走しているときに色々な人に何度も言われた。

「この世界に絶対的な悪なんてないんだよ。誰かだけが悪いことなんてない」

だから、何一つ恨めなくて、私は私を傷付けることしかできなくて、肉が裂けていく感覚に傷跡にすがることしかできない。

あの頃より、誰もにとって希薄になった私は、そうやって、ツラいことを呑み込むしかできないんだ。

それでも言われてしまう、「何でも自分のせいにしてればいいと思うなよ」。だから他人に同じ言葉を突き返して、悪人の気持ちを味わう。

 

――――私の手の中には、今、数種類の幸せが存在してる。増やそうと思えば、増やすことも出来る。

何故なら、私は創作者だから。ただの消費者ではないから。好奇心だって、他人より旺盛で、正直、ただの人間よりはできることが多い。やりたいことも多くて、ほんの小さな感情の揺らぎから大きなものが生み出せる、小さな視線から大きな感情を受け取れる。なのに――――「だから、潰れるんだよ。潰されるんだよ」。

 

身体が、心が、何かがついてこない。私の中身のはずなのに、なにもついてこない。

部屋が綺麗になったわけではないけど、寝床が少し変わって、睡眠不足が解消されたって、『私ね、少しね、起きていられる時間が増えたんだよ!!使い方が上手くなったんだよ!!』そう思えた瞬間だったのに!!!!

 

自分のやりたいこと1つすらできないんだ。小さなことのはずなのに、それすらできない。

でも、きっと叫んだところで、この痛みの悲鳴をあげたところで「よくあることだよ」で終わってしまう。こんな世界が、自分が、本当に、嫌いだ。