白い紙に墨汁を垂らし続けても、その黒は光を跳ね返し続ける。光を呑み込む黒には決してならない。きっと私の人生はそんな感じだ。

 

世界には言葉が増え続ける。大人のADHDとかヤングケアラーとか宗教二世だとかHSPとか……逃げ道を増やすように増え続ける。

「普通」なんてない。そんな言葉を私はよく耳にする。普通の家庭。普通の個性。普通の人生。でも、私は普通は存在すると思う。すぐに形を変えてしまうけれど、たしかに普通はある。その時、一番近い状況・考えの集合体。それが普通。

 

私が学校というものにあがる前くらいは教師が生徒を殴るなんてのは普通だった。親が子供を叩くことも、寒空の下に投げ出すのも、どこかに閉じ込めるのもよくある普通のこと。

たぶん、身体に痣があるくらいは普通で、上のいう事をきかなかった本人が悪く、気にさえ止められない。だからそれを嘆くこともしない。

 

それが、変化していく流れを私は身をもって知っている。普通が変容していく様を見続けた。

街から暗闇がなくなり妖怪達がいなくなるように、私の身に宿った異常が「よくある普通」になっていくのを現在進行形で体感してる。

 

だってこれらは何十年か昔の「普通」だったんだもの――。

 

私は親友という称号で示すに相応しい人物には感謝の言葉しかない事がある。

一番は時間が守れない事に対して毎回、改善策を作ってくれたこと。

 

自分でも何故そうなるのかがわからない。ただ、私は時間を守ることができない。例え、1時間前に用意を終えていても、出かける時間をタイマーをかけて定めていても、時間通りに目的地につけない。

 

遊びに行くときはいつも彼女を待たせてしまった。とても心苦しいのに治らなくて、それに対して彼女は一つ、一つ、改善策を作ってくれた。遅刻は治らないけれど、少し気楽になれる方法で待ち合わせるようになったし、彼女が私の遅刻を強く責めた記憶はない。これは感謝してもしつくせないと思う。

 

彼女に感謝を伝えても記憶にないようだが、学生の頃から宗教に対しても理解ある行動が多く、欠点がないとは言わないが私には出来過ぎた友人だと評したい。

でも、彼女にも彼女の事情があることを知っているつもりだ。当時から私自身が普通でないから異常さを感じていた話。だから私の事情を話しても理解が薄まると感じることがあった。だって、その歪みは多少の違いがあれど、彼女にとって普通であるから。

 

近年という言葉をつける必要性なく世の中には“ファッションオタク”という言葉が存在するようになった。

平成初期などオタクというものは犯罪者予備軍であり異常者と非難されるものだったのに、今ではオタクでないほうが非難を浴びるような世の中になり、本当に精神異常である精神障害や精神病を誇らしげに掲げる人が現れた訳で……。

 

私が障害者だということを明かすと「お前が障害者なら俺だって障害者だ」と言われたことが何度もある。

 

大人のADHDなどと言われるが、発達障害はある程度の年齢まで成長しなければ正式に判断はできない。

けれど、徴候は生まれてすぐからわかる場合が多いし、幼稚園に入ればより顕著にあらわれる。大抵の親も教師もそんな子供をどう扱えばよいかがわからないのでなすがままが多いが、理解と知識のある親ならば才能を伸ばすという方向に育てることもある。

 

私は幼稚園や保育園というものには通っていないので、徴候が大きく出たのは小学校にあがってから。私の母は学校には理解を示してほしいと多くの注文を付けた。

けれど、自分のやらせたい事は私にどんな負荷がかかろうとやらせた。比喩なしに血を流す努力を求められた。月末が嫌いなのはもしかするとあの頃の記憶もあるのかもしれない。

 

障害のせいでできない事と、もう一つ、宗教のせいでできないこと。でも逆に、宗教のせいでできなければならないことも多くて、それがなにより辛かった。

苦しんで、苦しんで、痛い思いもして、色んな物を壊されて、奪われて、強制させられて、出来上がった“普通”。私はそんな普通なら要らなかったよ。私の持ってる普通に価値など殆どないもの。それに、あの時代のあの年齢の子供が手にするにはその普通は“異常”でしかなかったし。

 

叔母に言われた言葉が今でも頭を離れない。

「お前は本当に気持ちが悪い子供だった」

ただ、自分でも記憶していることはある。子供では決してない気持ち悪さ。

小学2年に叔父が死んだときのこと。初めて身の回りで人の死を知ったときのこと。

感情などないに等しかったので、死は理解できてもどうでも良いと思ったのが正直なところだ。むしろ、父の慌てようが面白くて、宗教の集まりを途中で抜け出せたことも嬉しくて、実はまた誰か死んで集まりから連れ出してはくれないかと願ったほどだ。

それでも遺体を前に大人が見せる哀という感情を見て、人が死んだらこのような反応をしなければならないのだなと思った。だから、しおらしくした。出棺のときは涙も流してみせた。叔父の名前を呼びながら。周りを真似て。

 

あれは自分でも子供のやることではないと思った。

 

でも、私が生きていたのは同い年の学業と遊びの話をしていれば良い世界ではなく、興味がない話題にも笑顔で対応し、教典の内容をそらで読み上げ、様々な派閥に気を使い、ときには理不尽な言いがかりにも真摯に対応しなければならない大人の世界。無邪気な子供でいることなど許されなかったのだからしかたない。

 

本当に必死に生き抜いた。と、思う。

 

25年間耐えた。多くのことに耐え続けた。そこからさらに4年。あがいてみせた。25年間よりもさらに必死になったよ。できることが増えたから、色んな努力をしてみた。

 

結果がこのざまだ。

 

頼れる人もおらず、知人なんて呼べる人もいない。ネット上にもくだらない話をしたり、一緒にゲームをするレベルの友達すらいなくなった。理由なんてしらない。ただ、みんな消えた。

唯一の救いは片手の指を切り落とされても数えられる人数の友人と病院に見捨てられなかったことだけ。

あとは、衝動的に親を殺す心配がなくなった……。

 

それでも日常生活に支障をきたすほどに毎日何かに怯え、家から出ることすら難しい。

明確な理由もなく精神が不安定になって、口を開くと『死にたい』という言葉しか出てこなくなって、そんな事ばっかり言っていたら余計にまわりに人がいなくなるから口を閉ざすしかなくて、それもストレスになって、ストレス発散に出かけたくても、家に帰れなくなったらどうしよう、外でパニックになったらどうしようってやっぱり家から出れなくて、なのに、家賃の集金が来ないまま11月になっちゃって、私のせいじゃないのに、家賃未納とか言われて、それが複数回起きて、この家から追い出されたらどうしようって。

皮膚がボロボロで身体が痛いから、病院行かなきゃいけないのもわかってるけど、知らないところに行かなきゃいけないとか、ご褒美用意したって、気を緩めてしまって家計がカツカツになって、でもこんなことバッカリ言ってたら、経済観のなさすぎる、我慢できない子だと思われて、頑張ってるのに駄目な子って言われる。

私、これでも、自分の実力以上頑張り続けてるの、苦手なことも頑張って、いっぱい、いっぱい、少しずつでも改善させて、なのに、両親からのDVは居場所も知られてないはずなのに酷くなるし、味方だと思っていた人も親の手先になってるし、大好きだった人は誘惑するだけ誘惑して苦しめてくるし、精神に余裕ないから今まで無視出来たようなことも無視できなくなるし、時間だけはすぐに過ぎるから、なりたくなかった大人の姿になってしまって、死にたいばかりが酷くなって、何をしても楽しくない。自分が何を楽しんでたのかもわからなくなってきた。

結局自分が強くなるしかないってわかってるけど、だけど、こんな人生ならいらない……。

 

昔、心が大きく壊れたときから私の中には私を守ってくれる人達が住み始めたんだ。

眠るときにはよくその人達に褒めて、抱きしめてもらって、頭を撫でて貰ってたんだ。

だけど、最近はその手の感触がわからない。わかっても、自分が醜すぎてその手から逃げ出してしまう。それで、彼らを自分の手で傷付けてしまう。なのに抱きしめてくれようとするんだ。

 

何をどう頑張れば、どういう努力をすれば、私は助かるんだろう。

 

助かるってなんなんだ。私、何に困ってるんだろう。どうなりたいんだろう。何がしたいんだろう。また、糸が絡まっていく。でももう、やっぱり疲れたから、問題を投げ捨てたい。投げ出したい。逃げたい。だから、死にたい。