意外だと言われることが多いが私は基本的には冬より夏が好きだ。夏は世界の色が鮮やかで、うだる暑さや体にまとわりつく服の不快感とそこからの瞬間的に解放される感覚は他の季節では味わえない。

それに、夏は何かと押し付け気味で、唐突で、騒がしくて、千年の恋をした人間を思い出す。

 

でも、一つだけ許せないのは日照時間。

 

随分と部屋を改造して窓を塞ぐ努力をしても今住んでいる部屋からまだ日光は排除しきれていない。だから、夏至が来るその日まで世界がいつまでも明るい。闇がなくなる。

早朝の4時を過ぎればもう空が白んでいく。他人に会いたくないから深夜にゴミを捨てに行くのに、4時を過ぎれば遠いビル群の向こうで夜を燃やして赤く揺らめく。これだけが不快でならない。

 

夕暮れも同じだ。夜を望みはするものの、世界が闇に呑まれていくそのロウソクが消える瞬間のような景色は嫌いなのだ。私の人生の中で安心できた夕方の景色などたった一度だけ。2015年の5月が終わろうとしていたあの日の心地よいエンジン音の中だけだ。

 

だからそんな景色を延々と見せつけてくる夏の夕暮れは嫌い。

 

太陽の光が嫌いなわけではない。私だって時には燦々と降り注ぐ日の光の下を駆けまわりたいと思うことがある。海だってプールだって好きだ。でも、日の光は私の生命を奪っていく。

明るい中で活動しようと思うと、とてつもなく体力が必要になる。それに対外、日の光に負けて、皮膚がただれだす。日焼け止めを塗ろうと、長袖を着てようと、私の体は日光に耐えられないのだ。

 

私はべつに夜が好きだから夜に活動しているわけじゃない。夜には利点が多いから夜に活動してるだけ。

 

夜に起きている人間なんて、仕事でない限りはろくな人間じゃない。だから、良い人間かそうでないか等と考える必要がない。

それに夜は情報がとても少なくて、思考を邪魔されることがないのもいい。深夜に仕事をしているのはそこが大きい。日中だと家の周囲の音も、気配も、ネットの中の情報も量が爆発的に増える。それを上手くカットすることが出来ないから私は大抵のことを夜にする。

 

ザックリいうと昔からそうなのだ。深夜にならないと集中できないから、自分のしたい事は深夜にするというのがしみついている。これはインターネットなんてものが一般家庭に現れるまえから。読書にふけるのはいつだって行燈の灯りを頼りにしていた。

 

灯りという言葉で思い出したのだが、今日、久々に屋上にあがってみたのだ。

 

屋上からは普段見えないものが色々と見える。自宅の窓からもそれなりに遠くが見えるがそれ以上に多くのものが見える。

そこで感じたことは“収束”という不愉快な他人の言葉。

 

コロナなんていう言葉がトレンドに入ることはなくなった。そんな話が話題にあがっても「風邪となにが違うのか」だとか「未だに気にしてるとか馬鹿馬鹿しい」とかそんなに過去を早く忘れたいのかというような言葉ばかり。

たしかにスペイン風邪が終息したときだって、いつの間にか終わっていたというからパンデミックなんてその程度なのかもしれない。それでも私は勝手に各々が「収束した」なんて言っていい事ではないし、政府が公表することでもないと思う。

それはこれだけ厳重に多くの人が気を付けているからという結果論であって、全員がそれをやめたらどうなるのかを誰が知っているというのか。

 

それでも多くの人が終わったと、日常が返ってきたと思っているようで屋上から街を見回すとコロナ禍が始まってから消されていたネオンや看板の灯りが再び点灯していた。

 

こういうところが人間の愚かさなのだと思う。

 

電力不足だと嘆きながら、都会の空は色が変わるほどに明るい。多くの人が街が暗いと「防犯が」と騒ぐが、そういう人は自ら防犯対策をしているのだろうかと問いかけたい。

街が明るくても、玄関を入ってからだって安全とは限らない。そう考えられないのなら、暗い道が危ないなんて喚かないで欲しい。頭が回る犯罪者なら誰かが通る可能性のある道端などではなく、騒がれても問題のない玄関で人を襲う。

ひったくりだってそうだ。暗い道を歩いてる人が居たからひったくったなんてのは、万引きに近いスリルを求める行為で、大金を狙うなら日中の銀行帰りの方が気を付けるべきだ。

 

というか、結局のところは防犯なんてのは地域連携力であって暗いか明るいかなんてついででしかない。なんなら、もっと個人個人が危機意識をもつべきでそれを社会に押し付けるのは責任転嫁ではないだろうか。

 

様々な科学の発展は人間の生活をたしかに楽にしている。ただ、その無意識化で変わっていく平穏は多くのものを人間から奪っている。AIの暴走だとかの妄言を語る前に既に人間は科学に侵食され、危機感や想像力、思考力などを失っていることに気が付くべきだ。

 

私は科学が好きだし、日々進歩していく様々な研究者の努力に敬意を表している。だから責められるべきなのは、その便利さに対して疑問も抱かず、物事の道理を理解する気もなく怠惰にその恩恵を浪費し、我が物顔で使っている側の人間。

様々なことを知ったつもりになってソシャゲに文句を言っているくらいならば、そのソシャゲのどの要素が容量をとっているかとか、電力消費の激しいアプリは何が原因なのかとか、通信量に違いが生じるのは何故なのかとか広告のないアプリは一体どうやって収益を生み出しているのかとかを考えてみろと言いたい。

 

ただの嫉妬だが、のうのうと日々を過ごせるタイプの人類が恨めしくてたまらなく、呪ってやりたくなる。

 

先日、私は久々に対面で人間と時間を過ごした。近年接触した人間の中では知識的常識を十二分に満たしている珍しい人で、感情面や会話としても不快感も違和感もないよく出来た人間だった。

だからこそ、楽しいはずなのに、会話を重ねていく毎に胸の中にかかっていく靄と、無事に家に辿り着けるのかという不安が増大していくのが疑問でならなくて、苦さが口の中で広がっていく。鬱が自分で考えるより酷いのか、それとも生理的に受け付けられない何かがあるのか、あるいは実は自分は人を馬鹿にしたい性格で愚かと言えない人間とは付き合いたくないと考える性悪な生き物だったのか。

 

別れて、家に帰れたあとも気持ち悪さがぬぐえなかった。なにがあんな感情をもたらしていたのか自分では答えが見つからなかった。

 

カウンセラーにその事を話すと特定の感情名を言われたわけじゃないが「合い入れないし、ムカつくね」って「だってその人は一般的な苦労はしてるかもしれないけれど、心が歪む程の苦労はしてないし、仲のいい兄弟がいて、家庭も平和そう。独りの大変さもしらない。当たり前を、当たり前に持ちすぎてる。だから、無意識にムカついても仕方ないんじゃない。まあ、クレトちゃんはそれが不安って形になったみたいだけど」って。

 

とても納得したよね。嫉妬でしかないけど、当たり前に帰れる家。「おかえり」と言ってくれる家族。

知識的常識を当たり前と語れてしまう、頭脳と環境。私にないものばかりを持っている。どんなに手を伸ばしても手に入れられないものばかりを持っている。そんな人は世の中に大量にいるんだろうけれど、その人もその人なりの苦労を色々としているのだろうけれど、生きてる世界が違い過ぎる。

もっと深く、深く話をしたら、言われた通り『合い入れない』になるのだろうとそんな気がした。
 

現実の時間も闇夜の中を歩くことしかできない私は、人生という道もこの薄暗いなんて言葉では片付けられない、かび臭いどころか鉄臭さが消えないような暗闇を歩まねばならないのだろうか。

 

これはとても悲しい事だと思う。人間が何のために産まれてきたのかなんて議論するつもりはないけれど、それでも不幸のぬるま湯で立ち止まって人生を終えたくはない。闇夜を歩くのなんて、好きな人とでかけた花火大会の帰り道くらいでいいんだ。