私はてにをはさんというボカロPさんの曲が好きだ。ギラギラを聴いたのは作曲がてにをはさんだったから。神様が左手で描いたような、誰にも愛されない自分でも全てを壊して前に進む強い少女の姿は共感する部分や背中を押される部分が多くて好きだった。
“この世にあるラブソングはどれひとつ 絶対 私向けなんかじゃないでしょう”
そう歌った彼女の歌に対して、苦しいほどの“あいしている”と繰り返される曲が作られた訳で……。
不幸な自分は孤独だと思い続けていたけれど、ある意味で彼女は自分の事だけに必死で周りを見ていなかった。そう捉えることもできる新曲を私は未だに辛くて聞き流すことができない。
他者は裏切る。
あまりにもありふれすぎてる世の中の理。私だって色んな人を裏切った。突き放した。それに両親も、兄弟も親友も恩師もどんな関係でもこの世に信じられる人間なんていない。それでも、案外と私は誰も恨んではいないんだ。妬むことはあっても、恨んではいない。
だけど、流石に疲れすぎて脳味噌が壊れたから逃げ出した。一応、逃げ出したあとも私は人間を求め続けた。きっと世界のどこかには信じられる人間がいるはずだって、諦めきれないから、探して、努力して、裏切られて。世界が流行り病で変容していくなかでも、そのサイクルは変わらなくて、やっぱり私が悪いのかなって自分を変える努力もしてみたりしたけど変わらなくて結構限界だなって、他の生き方は知らないけれど諦めようかなって、今も迷っている。
私の人生は不幸が多い人生だと思っているけれど、時代が移り変わっていって私程度の不幸な人生なんて小説にもできないくらいのものになってて、痛いのは痛いし、辛い。でも、どこかで聞いたことのあるような、ありふれた不幸でしかない。
とある配信者さんの企画で聴かせてもらえた他者の人生を聴いて心底そう思った。むしろ、私の不幸なんて色合いが珍しいだけで不幸にもならないのではないかって。
それでもやっぱり私は今でもその不幸で生きるのに苦労してるし、眠ることも目覚めることも恐ろしい。明日が恐い。それに私はその方のように明るく笑うことはできない。他の不幸の中でも輝きながら笑ってる人達のようには笑えない。冗談も言えない。
この違いを考えたときに、人とのかかわり方の違いの大きさってのはあるのかなって考えさせられた。
これでもSNSが盛んだった時期は他者と深くつながってたし、何年もの付き合いがあったわけで、でも、不意に、似たような時期に糸が切れたように繋がりがなくなってしまった。そして、つながれなくなった。そして、わずかに残っていた繋がりを拒絶したのは心が堪えられなかったから……。
でも、企画の中での話と新曲を聴いて、自分の不幸に陶酔して周りが見えてないんじゃないかなって。逃げてばっかりじゃ駄目だよねって、踏み出してみることにした。
先ず、一歩。
『やっぱり駄目なんだ』
でも、もう一歩。
『嬉しかったけど、難しいね』
もう一歩。
『届かないな。なにが悪いんだろう』
悪あがきでもう一歩。
『悪いことをしたかもしれない』
だったらもう、走ってみよう。
『私、なにかしてしまったのかな??』
答え合わせも出来ない。しかたもわからない。裏切られたなんて言葉を使うのは違うってわかってる。だから、これは裏切りじゃない。私にしてはとても頑張ったのに、駄目だった。
やっぱりこれは私に価値がないからもっと必死に走り続けないと駄目なのかなって、どんなに傷付いてもヘラヘラ笑い続けて、頷き続けて、都合の良い存在って立ち位置じゃないと価値が生まれないのかななんて、昔の二の舞い。
私の脳と心はあと何度もってくれるだろう。残機はあとどのくらいだろう。
完全に世界をみかぎれたら楽だろうか。けど、私はたぶん、まだそれができない。こんなに痛いけど、できない。だから、もう一度踏み出す力が欲しい。手を伸ばせる勇気が。まだ大丈夫だよって笑える強さが欲しい。
私、頑張るからさ、ねぇ、世界。お願いだから、駄目なら早く突き放して。中途半端なのが一番つらいんだ。優しい嘘は、殴られるよりも痛い。頑張るから、私、頑張るからさ、捨てるならちゃんと捨てて……。
本当のことを言えば、ちょっとで良いからあの頃みたいな幸せを二口程でいい。味わいたい。でも、たぶん、無理なんだろうってちゃんとわかってるから、どん底まで突き落としてよ。お願い。