《√8/マッチ売りの》
 幻覚とはどういうときにみるのだろう。独りのときにみえるあのボンヤリとした街の灯りは幻覚だろうか。「躊躇うな!」と叫んだあと喉に食い込む感覚は決して幻覚ではないと断言できる。その荒い息も、熱い涙も幻覚ではないと。でもそう、その瞬間に感じていた恐怖は幻覚だと言いたい。夢が叶う瞬間なのだから――

「ヤギとは……思えない眼つきですね」
 銀色に輝く満月が眩しすぎる夜の来訪者。
「アイツのツレ。ですからね――」
 あまりにも唐突で内心はとてつもなく焦っていた。偽物には叶うことのない銀と白のとても美しい髪。
「以前、お目にかかった際は黒髪だったと記憶していたのですが……」
 小柄でおとなしく、オオカミの気配など微塵も感じさせない。犬に近い感覚。いや違う。これは完全なる人の感覚だ。皮を被っている様には感じさせない程完璧な人間の気配。
「その耳と、その、同じような……」
 お淑やかな口調は昔と変わらず、少し困り気味に言葉を選択していく。眩しい。その声も仕草も、気配も。
「それで……その……」
 可愛らしさを凝縮して詰め合わせ過剰包装したような姿。仕草一つ一つが少女であり女性で、その点もあの頃と変わらない。獣だった頃のはずなのに。同じ獣と呼ばれる存在ではあったはずなのに、私の持っていない全てを持っているかのようで、私の持っていたものより勝っているものを持っているようで、眩しい。あの満月の様に。
 月に殴り掛かったところで届かないとは誰もが理解している。この月の場合は届くはずなのに殴れない。私の中に埋め込まれた金色の目がそれを許さない。

「渡しません。会わせもさせません」

 だから女が子駑馬を口にする前に私は言葉で殴り掛かり、本来なら彼女がもつ権限を断ち切った。正直に言えば恐かった。元がオオカミである彼女が武力を行使すれば、ヤギの私は勝てないだろうし、カレから預かった責務を果たせないことも、彼女を止められないであろう自分の無力さも。でも、それ以上に腹がたっていた。
 自分から全てを投げ出して、責務を果たすところを誰かに見せつける様にふらりと現れたこと。カレを幸せにしなかったこと。カレを不安にしていること。カレに大切にされ、一番に選ばれたことになにも感じていないこと。妬み。嫉み。僻み。恨み。辛み。憎しみ。嫉妬。完全に個人的な感情も沢山混ざっている。過去から今に至るまでのすべて。そんな自分の感情すべてが血を沸き立て、この女を許すなと叫ぶ。
 それでもとは少し考えていた部分もあった。苦労がわからない訳ではないから、情状酌量という考えも残していたが、彼女は……

「そうですか。わかりました」

 役所よりも素っ気がない言い方だと思った。義務は果たしたというような口ぶりに全身の力が抜けていく。
「ちょ、ちょっと待ってください!自分の子供でしょ?!自分で産んだんでしょ!?」
 慌てた私の問いに彼女は「はい」と私が頭のおかしな質問をしているくらいな返答をする。口が閉まらなくなってしまった気がした。
「だって、子連れって何をするにも大変じゃないですか。ハッキリ言って――」
 途中から言葉が認識できなくなった。ただそれと類似した台詞を最近きいた記憶はある。混乱という言葉が妥当な程、状況が整理できないうちに彼女は花のように可憐に微笑み月に帰るかの如く去った。連絡先の一つも残さずに。

 彼女のことは元々好きではなかったけれど、それ以上の感情は持たないようにしていた。でもこの満月の中、私は完全に彼女をオオカミでいうところの狩猟対象と定めた。私の持てる力全てを持って、復讐し、後悔させてやろうと。
 少しだけあった彼女への憧れの気持ちなど一瞬にして燃え尽きた。三度はあるはずの仏の顔も一度たりとも見せるものかと思った。半分は自分自身の境遇から来るものだと、自分に対するエゴだとも理解していた。だからといって躊躇いはもうなかった。そして満月が半月になる前に私は犯罪に手を染めた。