お吉の家族や親せきたち、そしてお福の家族も同様に、
伊豆下田で、激しい村八分に合い、
もう伊豆下田には一切未練は無くなり、一家総出で江戸に移住して、
新しい生活を送っていました☆彡

お福が奉行に雇われ、ヒュースケンの侍妾となってから、
父親と兄の二人が、江戸に住むようになっていたので、伊豆下田を後に少し
遅れて江戸入りしたお福と母親は、
主の五郎丸からの手紙に書いてあった住所に、足を運んで辿り着きました☆彡

その入り口には、
大きな門と小さな門があり、
どちらにも重厚な扉がついてあって、
小さい門の柱には、呼び込みの門番が数人いるという、
大通り沿い面した、仲之町という街でした。

その辺りは 新吉原 と言われる遊郭が立ち並んでおり、
お福の義父、五郎丸とお吉の父親の久兵衛は、
この新吉原の遊郭の管理者になっていたのでした。

「たまげたねー!お父さん。こんな立派な所に住んでるんやねー」

驚いたお福と、お福の母親のみやは、伊豆下田とは煌びやかさが違う ✨
 新吉原の遊郭の、町並みの美しさに感動しました。 💓💓 

 みやは目を輝かせてせて、「こんなことなら早く来れば良かった」と

お福と抱いていた不安を、吹き飛ばすように大笑いました。 

 お福は「こんな綺麗で便利な所に住めるんやし、お父さんの浮気や不倫は見逃してやることやね。
お父さんともう喧嘩せんで、お母さんは40歳にもなるんやし、辛抱してや」

そう言って母親にくぎを刺しました。 

その頃の江戸の遊郭では4年前、すなわちお吉が14歳の時に経験した、
伊豆下田での安政東海地震の次の年の

安政2年☆1855年11月11日午後10時ごろ、
関東地方南でM7クラスの地震が発生しこの安政江戸地震で、

600人余の遊女が死亡し、郭内の死者は120人余を数えていたのでした。

お吉の父親、久兵衛と、お福の義父、五郎丸は、あげまん娘のお陰で、
大金を手にした ことを契機に 、
雇われていた船大工の仕事をすぐに辞め、
二人は奉行から貰った支度金を持参して、江戸へ繰り出し、

吉原遊郭の大火事の焼け跡に目を付け、 新吉原の再建と開発に便乗していたのでした☆彡