PC新調しました。

ここ10年程?は主人の実家からお古をもらったり、

スマホがメインだったり。

 

どーしてもなければ困るものではないのだけれど、

レシピ見たり、家のにゃーこ達の写真アップしたいなと

思ったり、Wi-Fiあるから家の中で自由に使えるしとか

色々考えて、購入。

 

それにしても、時代は進んでいたようで、バックアップは自分で

とることになっていたり、セットアップ方法は随分変わったんですね。

これからちょっとPC生活送ってみようかなと思います。

先日1/21に入籍から丸7年 8年目を迎えました。

 

人といることが苦手な人間としては、これ程長い時間生活を共に

出来る人と出会えたことは、奇跡に近いものがある。

 

昨年は長年懸念だった実家を処分し、ミュウチャイという新しい家族を迎え、

仕事をスタートし、物理的な変化と共に、精神的な安定も徐々に手にした

一年でした。

 

人間の人生の長さなど、宇宙の規模に比べたら、瞬き程度なのだろうけれど、

結局自分のことは自分にしか分からない。日々ちょっとしたことに何を感じ、

どう行動するかは、自分で決めていくしかない。

 

物心ついたころから、人との関わり方に悩み、集団生活というものに馴染めず、

けれど、どこか誰かに理解して欲しいという欲望を捨てきれず、もがき続けた

ような気がする。

 

今は、やっとやっとここにいていいんだと思える、安心感を感じることが

出来るようになった。それでも、この世を去るまでは、まだまだ悩むことは

あるのだろうけれど、今はこれでいいと思えるようになれた。

 

先のことは分からない。

今、ここ、なんだ。

今週末は魚座で新月(日食)。

占星術は好きで色々見ているけれど、本当のところ

細かい意味とか良く分かってない。

 

それでも、月の満ち欠けを感じながら生活をしていると、

何となく安心出来たり、心の揺れを受け入れることが容易

に出来たりする。

 

ミミの百か日も過ぎ、大分落ち着きを戻した日常。

少し引きこもり期間が長引いてきて、思考が凝り固まり中。

 

自分の現状に若干の不安を感じつつ、同じような境遇の方を

ググってしまったり、意見を見てしまったりしたけれど、

結局、人は人、自分は自分なのかなというのが結論。

 

本当に知りたいことはそこにある訳ではなく、

自分自身の内側に、あるもので。外側にある訳ではないのかな、と。

 

生きてきた時間は、人それぞれで、自分がどう感じているのかは

自分にしか分からない。

 

この世で唯一直視出来ないものは、自分の顔だというのを、

何かで読んだ時、今までにない納得感があった。

 

分かっているようで分からないのが自分という存在だけれど、

それでも一番自分を理解出来るのは、自分でしかないのかなと。

逆説的なことをふと思ったりした。

 

まだまだ、道半ばで先は靄がかっているけれど、

焦らず、一歩一歩進んで生きたい。

 

新月の日には、また願いを書き出そ。

映画ではないけれど、今クール特に面白いと思うドラマは
二作品。“東京タラレバ娘”“カルテット”

“東京タラレバ娘”は、いわゆるラブコメだけど、30歳を迎える頃って
一度人生立ち止まるタイミングで、明確な結婚願望がないとしても
20代の頃は、その頃には漠然と一生のパートナーとは出会ってて、
もしかしたら子供もいて、家族とか持っていたりするのでは、なんて
世間一般の流れに乗っている自分を想像していたりする。

仕事も嫌いじゃないし、自由な時間ももちろん欲しいのだけど、
すこーしだけ、何となく焦りを感じたり。

この先、どうなるのかなとか、ドラマの中では、東京オリンピックまでを
一つのタイミングとしているのは、やっぱり今の時代だななんて。

“たら”“れば”言ってるのは、30代前後の女性に限ったことではない
けれど、ちやほやされるほど若くはないし、人生悟れるほど成熟している
わけでもなく。まだどこかで色々な選択肢もあるはずとか。
行ったりきたりして、ちょっともがいている感じが少し懐かしい。

“カルテット”は、残念ながら一話を見逃してしまった。
こっちはもう少し大人な感じだろうか。
それぞれが、人には言えない何かを抱えていて、それを何となく察したりも
しているのだけど、あえて踏み込まなかったり、何気ない会話に気遣いや
息遣いを感じたり。血のつながりや家族という形にこだわらず、今は共に
いるということの繋がりに対しての安心感。

共演者の空気感が見ていて心地よく、ほっとしてしまう。
出演者のそれぞれの個性の強さも、とても好きです。

ストーリーは違うけれど、先日見た映画“海よりもまだ深く”
と似たような空気感かも。テンポがドラマと映画だと違うけれど。


誰もがなりたい大人になれている訳ではなく、それでも人との繋がり
を大切にしながら、もがき一生懸命に生きている姿に惹かれるのかな。

最後まで楽しみです。
昨日の続き。
新しい子(犬)を迎え入れたいという気持ちを、パートナーに話した。
彼の意見としては、“まだ早い、一年は待つべきでは”とのこと。

確かにそれも一理あるのだけれど。
それも含め、考え抜いて自分の中で“今”という一端の結論を出し、
相談したんだけどな、と思ったら少し悲しくなってしまった。

ネット上に溢れる意見は、それはそれなのだけれど、1年待たない
というのは、やっぱり違うのかなと思い、色々と意見を検索して
しまった。

人それぞれの考え方だけれど、“旅立った愛犬は、飼い主さんが
幸せで、笑顔でいることを望んでます。だから、すぐに次の子を
受け入れたとしても、その子を忘れたことにはなりませんよ”
というある獣医さんのブログの言葉に少し救われた。

彼に希望を伝えたとき、“何で今?”とか“チワワじゃないとだめ
なの?”とか“旅行行きたいときは?”とか、理由を複数求めら
れたけど。

そういう理路整然とした理由ではないんだよな。
後付で理由をつければ色々あるけれど。

いざという時には、彼の協力(今は主に運転、だけじゃないけどね)
が必要不可欠な今、納得してもらえる理由が必要なのかな、やっぱり。

最終的には、一度会ってみてから決めるということで落ち着いた。
ご縁があればということで。それで良いのかな、今は。
昨年、11月13日にミミ(チワワ)が旅立って17年の生涯を全うし、
旅立ってから一年は喪に服そうと思っていた。

知人が20年以上連れ添った猫ちゃんが旅立った後、一年は喪に
服すと言っていて、実際一年経った後に、双子の猫ちゃんを迎え
入れていたのを見て、やっぱりそういうものかなと思ったりして。

けど、ちょっと考えが変わってきた。

少し前にボランティア登録をさせてもらった
Animal Heart Rescue
長く活動をされていて、その趣旨に賛同し、自分でも何か役に立てないかと
何度かお散歩ボランティアをさせてもらった。

一度お散歩をさせてもらった子が、正式譲渡になったという情報を目にすると
本当に嬉しくて。一度(だけではないかも知れないけれど)悲しい思いをした子
がまた新たな家族との出会いに恵まれ、幸せにこれから過ごせると思えると、
何ともいえない、ほっとした気持ちになる。そんな活動を20年近くされている
スタッフの皆様には、本当に頭が下がる思い。

保護されている子達は、どちらかというと中型から大型犬の場合が多い。
引越し等の環境の変化や、想定外の成長過程で、手放すという人が多い
のではないかと考えている。以前観た“犬と猫と人間と”というドキュメンタリー
で、離婚し生活保護を受けるため、泣く泣く犬を手放すという人もいたけれど、
大半は余りにも身勝手な、命を命と思っていない理由だと思う。

住環境が可能であり、縁が合えばそういった子も受け入れたいと思うのだけど、
今の環境では小型犬しか受け入れられない。そんな中、twitterでチワワが
保護された投稿を見た。少し前から、喪に服すことより、全てを救うことは到底
出来ないけれど、ご縁があればまた家族を受け入れることが今出来ることなの
ではないか、ミミももしかしたらそれを望んでいるのでは(勝手な考えだけれど)、
そんな風に、考えがシフトしていた中で目にした投稿。

家族(犬)を受け入れるのは、それなりに覚悟がなければいけない。
お金もかかるし、生活に多少の制限もかかる。ミミの場合は、腎臓機能が低下して
からの一年半、毎週病院に通い、一回一万はかかり、月四万、トータルでいったら、
百万円以上はかかっていると思う。

自分の年齢との兼ね合いもある。人間いつ死ぬかなんて、分からないけれど、
受け入れたら(その時の年齢にもよるけれど)10年から15年は共に生きる
可能性がある。そこまで体力的・経済的に支えていけるのかどうか。

ミミを受け入れたときは、母から“自分は年齢的に受け入れる自信はないけれど、
あなたが最期までみるのであれば”と言われ、覚悟の上で受け入れた。
人間の勝手で、受け入れたり手放したり、そんなことはあってはいけないこと。

今思っているのは、ミミに対してもう少し出来たことがあったのではないかなと。
ワクチン接種等当たり前のことはもちろんしていたけれど、年一回の健康診断
をしていればあんなに腎臓機能が悪くならずに済んだのではないか、とか。
毎日歯磨きしていれば、最期まで健康な歯で食事が出来たのではないかとか。
今更の後悔だけど、それも含めて、直感を信じてまずは行動してみようかなと。

ご縁があるかどうかは分からないけど、まず一歩。
新しい家族との出会いから広がる幸せが、少しでも増えますように。
現代のネット時代、言葉というのは昔以上に、良きにせよ
悪きにせよパワーを持っているんだなと、改めて感じる。

人は、聴覚や視覚や嗅覚など、色々な感覚を使って、
様々な情報をキャッチし、判断するものだけれど、PCや
スマホに映し出される“文字”から受け取る情報は、受けて側
の判断により左右されるものだと思う。

現実の世界で出会ったことがある人であれば、文字だけではなく、
人となりも分かるし、どういう意味でこういう発言をしているのか、
想像は出来るけれど、直接その人自体を知らないと、情報がなく、
判断が出来ない。

ネット時代、簡単に繋がることは出来るけれど、やはり最初の出会いは
リアルな世界での出会いがなければ、そこから繋がることは難しい。

自分にとってのSNSは、リアルな世界における出会いの延長にある
コミュニケーションツール。ブログをこうやって書いているのは、
クローズされた世界で脈絡なく書く日記とは違い、その時々、自分の
中にある一つのテーマに対しての文章を書くという、トレーニングの
一環。

最近のニュースを見ていると、物事に対して賛美両論両極端な意見が
ネット上で散乱しているような気がする。自分の意見と違う意見がある
ことは当たり前だし、それに対して否定をすることも悪いことではないと
思うのだけれど、いわゆる“炎上”をきっかけに発信することが出来なく
なったりすることには、何となく違和感がある。

一つの言葉だけを捉え、その裏にある本質的な意図や意見を見ずに、
匿名で一方的に否定批判をするのは、フェアではないのではないかと。

身近な人と、現実の世界で“自分はこう思う”とか“あなたはどう思う?”
等の議論をすることは良いことだと思う。そうやって違う意見を持つもの
がコミュニケーションを取る事で、新たな発見もあると思うし。

ネット上で、名前も顔もバックグラウンドも知らない人の意見を見て
いても、同意も否定も本当は出来ないのではないかな。

トランプ大統領が誕生し、ニュースでは世界が分断し、世の中が
大きく変わろうとしている(様々な意見はありますが)と言われる
現代において、意見の違いや文化の違いを許容し、共に生きる
ということは、より大切になっていくのではないかと。

ネットは便利なものだけれど、より人と人との“心”を近づけること
が出来るツールとして、発展していけばいいのにな。なんて、
デジタルネイティブではない世代の自分は思ったりする。
最近は家にいることが多く、家にいると朝起きて、当たり前のように
テレビをつけ、家事やったりしながら、結局そのままつけっぱなしで
一日が終わる。。なんてことが多々あり。

けど、流れている情報は別に求めているものでもなく、ワイドショーや
ニュースは、どの番組も大概同じことの繰り返し。ほぼどの局も同じ
時間帯に同じような番組構成で、同じニュースをコメンテーター変えて
流している。

ドラマはCMで中断されるのが嫌なので、基本録画でしか見ない。
CMって結局は、購買意欲を駆り立てるものばかりで、消費社会を
表しているものでしかない気がする。

以前の職場にいた20代を中心とした一人暮らしの若手は、
ほとんどテレビを持っていないという。情報はほとんどネットで取れるし、
必要性を感じないらしい。

テレビを全く見ない、必要ないという訳ではなく、やっぱり日々に音
が欲しいなと思ったのと、少し生活スタイルを変えてみたいと思った
のをきっかけに、無印良品のラジオを購入してみた。

元々災害に備え、手動でも充電が出来る携帯型のラジオを探していて、
家電量販店等では見つけられず、若干高いかなとも思ったけれど、
思い切って購入。

実際届いて物を手にすると、本当小さくて、軽い。
昔、同じく無印で買ったポータブル型のラジオ+CDラジカセのでかさは
なんだったんだろうか。。

これなら、もし何か災害が起こっても、懐中電灯と一緒にすぐ持っていけそう。
音にこだわる人からしたら、音質は物足りないものがあるのかも知れない
けれど、特にこだわりのない私としては、問題ない音質。

スマホも充電出来るし、LEDライトも装備。
電池でも内部充電池でも使えて、結局コスパは良い方だったのかな。

水瓶座新月の今日、何となくちょっと良いタイミングだったかな。
引き続き、必要なものを厳選して、すっきり好きなものに囲まれた生活を
構築していこう。

FBでも話題になっている、キングコング西野さんのブログ

個人的に好きかどうかで言ったら、どっちでもないのだけど、

今回の行動には、感銘を受けた。

 

 

実際、現実の世の中では“善意でどうのこうの”なんて、そんな甘い
ことも言っていられない人達もいるだろうし、私自身だって余裕なんて
ない。先を考えてたら、ちょっと不安になったりもする。

それでも、やっぱり人の善意というものを信じたいと思う。
ブログにもある通り、何もかもを人の善意に頼る世の中を作り出すことは
出来ないと思うし、そうする必要もないと思う。

お金を稼ぎ、余裕のある人達が、贅沢品を手にすることも別に悪いこと
ではない。けれど、ただそれだけになってしまう世の中はやっぱり
寂しく感じる。

今の時代、いつ何時、何が起こるかはわからない。
特に2017年以降は、世界経済も日本経済も先が読めず、
天災も人災も、いつ起きても不思議ではない世界。

インターネットが発展し、SNSというツールがかつての電話のように
当たり前になっていく世の中を止める事は出来ないけれど、
それが人の役に立つツールとして発展していって欲しいと思う。

上手く表現できないのだけれど、

昨年、知人からお金を貸して欲しいという申し出があった。
一時的に困っていることは、FBの書き込みから分かってはいたけれど、
やっぱり金銭のやり取りには抵抗があり、パートナーは一度了承したのだけれど、
私から断った。違う形であれば、出来ることであれば、手を差し伸べたいと思うの
だけれど、“現金”でのやり取りはどうしても抵抗があった。貸すのであれば、
返ってこない前提で貸すのが当たり前だけれど、貸したという事実は多分
私の中でずっと消えない。であれば、その人との今後の関係性は確実に
変わってしまう。


一時悩んだ。断ってしまうのは、突き放すことになるのではないかと。
冷たい人間なのかなとか。

ただ、自分の才能や特技を活かして、人を助けることと、ただ単に現金を貸す
というのは、やはり大きな違いがある。そこはどうしても譲れなかった。

自分自身にどんな才能や、この世の中とまでは言わないまでも、身近な人達への
貢献が出来るのか、まだまだ分からないけれど、私は私のやり方で、生き方で
恩や善意を表し、返して生きたいと思う。

今週観たのは、これ
ストーリーは淡々と進んでいき、大きなアップダウンはないけれど、
人が人として、当たり前に普通に生きている日常が丁寧に描かれていて
見終わった後、ふーっと息を吐き、ほっと出来るような映画だった。

 

親が子を想う気持ち、甲斐性がなくても、幾つになっても、親にとっては
子供は子供で心配の種であることに変わりはなく。

 

離婚も珍しくない現代ではあるけれど、やはり一度は夫婦になった、
惹かれあって一緒になった二人の、微妙に近くて遠い空気感。

でも、もう戻る事はないという決意。

 

まだ自立していない子供にとっては、どんな親も親であり続ける、

けど、ある程度世の中が分かってきた子供にとっては、親が

社会において、どういう立ち位置なのかを理解し、そうはなりたくない

とも想ってしまう悲しさ。


実家が団地の私にとっては、映像としても何だか懐かしいような、

切ないような、そんな気持ちで最初から最後まで観る事が出来た。


誰もがなりたい大人になれた訳ではないけれど、それでも日々を

生きていく。どこか、お互いを心の片隅に置きながら、気にかけながら。


私自身はどこか、“家族”というものの近さに恐怖感がある。
助けてもらっているし、いざとなったら頼るのは家族のなのだろうと
思っているけれど、“家族だから”という理由で距離を狭められるのは
どうも苦手で。産んでもらって育ててもらって、子育てを経験していない私
は本当の意味での苦労を知らないのだと思う。それでも、大人になれば
それは独立した人格を持った一人の人間になるわけで。そこは甘え過ぎては
いけないのではないかと思うのです。

 

今の自分が立派に生きているとは思っていない。
なりたい大人にもなれていないと思う。
それでも、ちゃんと自分の足でちゃんと生きていきたいと思う。

 

家族というものに対して、観終わったとき、日々自分なりの関わり方を
考えるような、そんな映画でした。