私は牧師の娘。
いわゆる宗教二世です
これは、私にとって「当たり前」だった世界が変わるまでの記録です。
※ちなみに、私が言う「キリスト教」とは、私が経験したキリスト教に過ぎません。
*******************
↑前回はこちら
両親が神学校を卒業し、
私も小学生になって、晴れて外の世界に飛び出しました
私の住んだ家は、教会兼自宅でした。
それもあり、家ではテレビ、漫画、ゲームなど、
いわゆる娯楽なるものは、
「神様から心を遠ざけてしまうもの」
「教会に世の中のものを入れてはいけない」
という理由で禁止されていました
私にとって特にキツかったのは、テレビを見せてもらえないこと
小学生の会話なんて、今流行ってるテレビの話ばかり。
友達の楽しそうな話にまったくついていけず、
悲しい思いをたくさんしました
家にテレビがない人なんていないし、
恥ずかしくてよく嘘をついて、話を合わせていました
嘘をついた後は、私は嘘つきだから地獄に行くという恐怖で、急いで悔い改めの祈りをしました。
地獄が怖くて仕方なかった私は、
そのうち「罪」というものに非常に敏感になっていきました
父親は、
「心に一点の曇りもないようにしておきなさい」とよく言っていました。
それで、小学生だった私はおかしくなりました
少しでも心に罪があったら地獄に堕ちる
その恐怖から、
私の心に1ミリでも罪がないか確認することに必死になり始めたのです
例えば、道端のほんの小さな石ころがつま先に当たって跳ね、近くの車に当たった時。
車が傷付いたかもしれない。
黙っていたら罪になるのではないか。
持ち主に謝りに行かないといけない
と思い込む。
それから、心にふと「汚い言葉」が浮かんだ時。
口に出したのではなく、浮かんだだけでも、
こんな言葉が心に浮かんでしまったのだから、私は罪を犯したのだと思い込む。
そういった具合に、どんどん神経質になっていきました
罪を犯さないように、
私はできるだけ何もしないように、
何も考えないように、
そう行動するようになりました
物を汚したり傷付けたりしないように、
とにかく、人の物に触らないようにしよう
お店では、商品を触れなくなりました
私が触ったことで商品が傷付いたかもしれない不安から、欲しくないものでも買ったこともありました
変な言葉が心に浮かびそうになったら、
急いで他のことを考えたり、わざと体を動かしたりして、その言葉が心に浮かばないようにしました
あの頃の私の行動はだいぶおかしくなっていたな、と思います
いつもいつも「あれは罪かこれは罪か」を考えるようになり、
頻繁に父親のところに行っては、
「こういうことがあったんだけど、大丈夫かな謝りに行った方がいいかなこれは罪かな」と確認するようになりました
父親が、「それは大丈夫だよ。謝りに行かなくていいよ。罪じゃないよ。」と言うとすごく安心し、悩みが消えました
しかしすぐにまた、次の罪の悩みに襲われました。そしてまた父親に大丈夫か聞きに行くのでした
あまりにもしょっちゅう確認に行くので、しまいには、父親に、「めーちゃん、もっと堂々と生きなさい」と言われました
いつも罪探しに忙しく、常に悩みがあって、心から楽しいと感じることがありませんでした
小学生時代は、しょっちゅうお腹を下しました
そんな私も、中学生になると、物にぶつかったくらいの些細なことは大丈夫と思えるようになりました
高校生、大学生になると、学校行事、好きな人、友達、部活など、青春の楽しみが私の悩みを覆い隠すようになりました。
私も地獄の不安を意識的に頭から振り払うようになっていきましたただ単純に青春を楽しみたかったのです。
でも家で一人でお風呂に入っている時など、
ああ、私の好きな人も、仲の良い友達も
みんなクリスチャンじゃないから地獄に堕ちてしまうのかと、度々とてつもない恐怖に襲われました
心の底から、お願いだから未来が来ないでほしい。時間が過ぎないでほしいといつも思っていました。
続きはまた書くことにします