このたび、ブログを始めました。御年81歳です。

 

ペンネーム、マイク青木(本名、青木 實)です。

 

81年間生きてきて、経験してきたこと、見聞してきたこと、分かって来たこと、また依然としてわからないこと、などなど書き連ねていきたいと思っています。

 

小学校一年生から四年生までは太平洋戦争中でした。1944年から45年にかけては、連日連夜の空襲を経験しました。当時は、東京は足立区に住んでいました。これが幸いしました。都心から離れていたので助かりました。都心やそのすぐ周辺に住んでいた方々の多くが空襲で命を落としました。

特に1945年3月10の東京大空襲では、一夜にして約100,000人の都民が命を奪われました。

まだ小学校で授業があった時は、学校の先生から毎日のように「早く大きくなって、兵隊さんとしてお国のために戦うんですよ。捕虜になるのは大変恥ずかしい事だからね」と耳にタコかできるほど聞かされました。

そのせいで、「オレたちは二十歳ごろまでしか生きられないんだ」とマシに思っていました。

男の先生はみな兵隊にとられてしまっていて、女の先生ばかりでした。

戦前・戦中は、学校では、男女は、別々のクラス編成でした。

男の子たちは、兵隊になった時の心構えみたいなものを植え付けられました。

上記の東京大空襲があって、政府は「学童疎開」を始めました。私は、父の生まれ故郷の岩手県和賀郡東和町の実家に母親、姉二人、弟二人と疎開しました。いわゆる縁故疎開です。

親類縁者のところへ疎開できない子供たちは、集団で地方のお寺に疎開しました。いわゆる集団疎開です。

疎開先では、空襲は皆無で、日本が戦争している雰囲気は全くありませんでした。

そして、1945年8月15日、「大事なラジオ放送がある」ということで、私たちは、村のある一軒の家に集まりました。

暫くして、聞きなれない男の人の声が流れてきました。これが、天皇陛下の終戦を告げる玉音放送であることをあとで知りました。

戦時中は、天皇陛下は「現人神」でしたから、大部分の国民は天皇陛下のお顔を実際に見たことがないばかりか、お声もこの玉音放送で初めて耳にしました。