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今月末に門下生の同行で、愛媛県にある石鎚山の頂上社まで登拝しに参ります![]()
石鎚山は、
古くから山岳信仰、修験道の霊山として信仰されてきた山であり、石鎚神社では石鎚山そのものを御神体山として仰いでいます。
西日本最高峰でもあり、日本七霊山の一つにも数えられる石鎚山。
その頂には、石鎚神社の頂上社が鎮座しています。
私にとって登山は、御神体である山へ入り、神の懐へ入らせていただく山行です。
それに向けての準備運動のように、先日、茨城県の筑波山に行ってきたのですが、
その登拝の最中に、ふと入ってきたものがありました。
守護龍を召喚したあと、
その繋がりが確実に深まっている者は、山にチャレンジしようと思えるものである。
というような言葉が、ふと入ってきたのでした。
山が好きだから。
登山が得意だから。
そういうことではなく、
たとえ山が苦手であったとしても、山へ向かおうとする。
なぜなら、
山そのものに神がいるから。
神の懐に入りたくなるのだ。
と。
この言葉が入ってきたとき、
「あぁ、そういうことなのか」
と、とても腑に落ちました。
実を言うと、
私自身、登山が得意なわけでも、好きなわけでもありません。
それでも守護龍を召喚してからの13年間、
私は何度も山へ向かってきました。
「山が好きだから行きたい」
というよりも、
何かに突き動かされるように、山へ向かい続けてきた。
その方が、私の感覚には近いように思います。
しんどいこともあります。
途中で、
「もう嫌や〜!」
と思うこともあります(笑)
それでも、また山へ行きたくなる。
そして振り返ってみると、
山に入るたびに、必ずと言っていいほど何かに気づかされてきました。
自分では気づいていなかったこと。
忘れていた大切なこと。
自分自身の未熟さ。
これから向き合わなければならないこと。
毎回、何かに気づかされ、
目覚めさせられている。
そんな感覚があります。
古来、日本では山そのものが神聖なものとして信仰されてきました。
修験道においても、
山は単なる「修行をする場所」ではありません。
神仏のいます山へ入り、
自分の足で歩き、
登り、
祈る。
そのすべてを含めて山行です。
守護龍との繋がりが深まっていけば、
「龍がついている」
「神様と繋がっている」
という言葉だけではなく、
もっと近くへ行きたい。
もっと感じたい。
もっと深く神仏と向き合いたい。
そんな思いが芽生えてくるのかもしれません。
神の懐へ入りたい。
だから、たとえ苦手でも、
自ら山へ向かおうとする。
滝行にも、これと通じるものを感じています。
冷たい水の中へ自ら入り、
祈り、
自分自身と向き合う。
ただ、今回私が筑波山で受け取った感覚では、
「神の懐へ入る」という意味においては、
山そのものへ入り、自らの足で頂を目指す山行の方が、より強いものでした。
もちろん、
山行と滝行のどちらが優れているという話ではありません。
それぞれに意味があります。
そして、もう一つ。
これまで何度も山行を重ねてきて感じることがあります。
何度も山にチャレンジし、それを体得してきた者ほど、大きくブレなくなる。
山は、自分の都合に合わせてくれません。
暑い日もあれば、
寒い日もある。
雨が降ることもあります。
足が痛くなることも、
息が上がることもあります。
どれだけ険しい坂道を前にしても、
「今日はしんどいから、この坂を平らにしてください」
とは言えません(笑)
山が自分に合わせてくれるのではなく、自分が山に合わせるしかない。
筑波山では途中から雨が本降りになり、
登山道を雨水が流れ、
道が川のようになりました。
ちなみに、私が山行で履いているのは登山靴ではなく地下足袋です。
山伏が山行の際に履く装束の一つで、私も山へ入るときは地下足袋を履いています。
その地下足袋の中まで雨水が入り、びしょ濡れ。
レインウェアも意味がないほど、全身ずぶ濡れになりました。
それでも、
一歩。
また一歩。
自分の足で進んでいくしかありません。
そして不思議なことに、
私はそれをとても気持ちよく感じていました。
頭で「分かっている」ことと、
実際に経験して「体得している」ことは違います。
何度も山へ入り、
苦しい経験もして、
思い通りにならないことも経験して、
それでも自分の足で前へ進む。
それを繰り返していくうちに、
頭で理解していたものが、
少しずつ自分自身の中へ入っていくのだと思います。
だから、
何度も山行にチャレンジし、
経験を積み重ね、
体得してきた者ほど、
何かが起きたときにも大きくブレなくなる。
もちろん、
「ブレない」というのは、
迷わないことでも、
落ち込まないことでもありません。
人間ですから、
迷うこともあります。
腹が立つこともあります。
落ち込むこともあります。
それでも、
自分の中心へ戻ってくることができる。
大きく揺れても、
いつまでもそこに留まらない。
それもまた、
修行によって身についていくものなのではないかと思っています。
スピリチュアルな世界では、
「これは神様からの導き」
「うまくいかないのは宇宙が止めているから」
「あの人とは波動が合わなくなった」
「私はこう感じたから、これは神様からのメッセージ」
そんな言葉を耳にすることがあります。
もちろん、
本当に導きを受けることもあります。
私自身、
こうして山に入ると、
大切なことだと感じる言葉や想いが浮かんでくることがあります。
だからこそ、
私は自分が感じたことを、
何でも神仏からのメッセージだと決めつけないようにしています。
これは本当に導きなのか。
自分の願望ではないのか。
自分に都合よく解釈していないか。
恐れや執着から生まれたものではないのか。
「神様がそう言っている」
そう言ってしまえば、
自分自身を振り返らなくても済んでしまうこともありますね。
それでは、
スピリチュアルが自分を成長させるものではなく、
自分を正当化するためのもの
になってしまうのではないでしょうか。
山は、
自分に都合のいい答えをくれる場所ではありません。
むしろ、
自分の弱さも、
未熟さも、
そのまま見せてくれます。
だからこそ、
私はこの13年間、
何度も山に呼ばれるようにして足を運び、
そのたびに何かに気づかされ、
目覚めさせられてきたのかもしれません。
神仏との繋がりが深まるということは、
自分が特別な存在になるということではない。
自分自身と向き合い、
苦手なものにも一歩を踏み出し、
経験を重ね、
それを体得し、
少しずつ大きくブレない自分になっていく。
光とは、
自分にとって心地よいものだけを照らしてくれるものではありません。
ときには、
自分が見たくなかったものまで照らし出します。
それでも目を逸らさず、
一歩。
そして、もう一歩。
自分の足で歩いていく。
光へ。
今月末、
石鎚山の頂上社へ。
また神の懐へ入り、
何を感じ、
何に気づかされるのか。
一歩一歩、
自分の足で登って参ります。
最後までお読みくださり、
ありがとう存じます![]()



