さびしさもコンプレックスも元々は存在しないもの
イ・ギヨム/通訳・翻訳家

 

ハーフということで馬鹿にされ、孤独だった学生時代。韓国人の父とフランス人の母との間に一人息子として生まれたイ・ギヨムさんはこれまでの人生で、社会と折り合いをつけながら生きることがとても辛かったそうです。
「すべての人が争うことなく平和に暮らすことはできないのか?」という思いが幼少の頃からいつも頭から離れなかったというギヨムさん。
心を引き算する瞑想を通して、差別のない世界、人々が一つになって暮らせる平和な社会への道筋を得た彼の瞑想体験談です。



 

「さびしさもコンプレックスも本来存在しない」ということを悟る
私は幼少の頃から自分の本当のルーツとは一体何なのかと思い続けてきました。


自分はフランス人なのか、それとも韓国人なのか。

 

自分はいったい誰なのか。

 

 

でも、どこにもその答えを見つけることはできませんでした。

 

そうした中で私は引き算の瞑想と出会い、無限大の宇宙が本来の自分であることを悟りました。

 

そして自分がハーフであることへのコンプレックスから抜け出すことができました。

 

さびしさも元々存在しないものだということもわかりました。

 

 

自分本来の心にはさびしさ、怒り、悲しみなどの人間の持つ心は存在しません。


それまで自分一人の心の中に閉じこもって苦痛の中で暮らしてきたこと。

 

それを知った瞬間、人はどうすれば幸せになれるのかという疑問への答えがわかり、その喜びは大変なものでした。

 

瞑想を始めてどれくらいたったのか、ある日、父からこう言われました。


「今まで無責任にも一人ぼっちにしてすまなかった。

 

俺が悪かったよ」と。


その一言に胸が詰まり、父に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 

これまで父に怒りをぶつけてきた出来事が脳裏に浮かび、両親が今まで私にできる限りのことをしてくれていたことに私はようやく気付いたのです。



差別と無視、音楽を頼りに耐え抜いた学生時代
私は10歳の時、韓国からフランスへ留学に来た従兄弟と共に全寮制の学校に移り、以後、両親とは離れて暮らしてきました。

 

それまでフランスの片田舎の学校に通っていた私が、お金持ちの子供たちの通う学校に転校したわけですが、友達からは“つり目”だとか“中国人みたいだ”などとからかわれたり、“安物の服を着ている”と馬鹿にされたりもしました。

 

こうした体験は幼心にとてもつらいものでした。

 


高校でも転校を繰り返したためまともに友達もできませんでした。


いつも世の中から仲間はずれにされている気がして孤独でした。

 

そうした中で音楽だけが私を救ってくれる唯一の仲間でした。

 

ラップソングを作ってはストリートでパフォーマンスをしたりしました。

 

しかしその一方で心の中にはいつも悲しみがありました。

 

音楽を聴いてくれている人々にもそうした心がそのまま伝わるのかと思うと申し訳ない気持ちにもなりました。



新たな人生を求めて韓国へ。父の勧めで瞑想を始める
音楽を通してであれ、他の何かを通してであれ、私は自分の心をきれいに整理したいと思っていました。

 

私が抱えた最も大きな心はさびしさでした。

 

だから人に依存する心は非常に強いものがありました。


20歳の頃から2年ほど付き合った彼女がとつぜん私から離れていってからは、それまであったうつ病がさらにひどくなりました。

 

「この世の中に信じられる人は誰もいない」。

 

一人ぼっちにされた、裏切られたという感情に打ちのめされ、怒りが爆発しました。

 

そこには希望など一つもなく、あるのは「死にたい」という思いだけでした。

 

フランスという国が本当に嫌いになり、母の故郷である韓国で新たな人生を始めようと思いました。

そして2005年に韓国を訪れた時に父から、心を引き算する瞑想を勧められたのでした。

 

父は言いました。

 

「心を引き算する瞑想は、本当の世界と一つになれる勉強だ」と。


私が小さかった頃から母は熱心な仏教徒で「本来あなたと私は別々の存在ではなく一つの存在なのよ」とつねづね聞かされてきました。

 

私は「そうだとしたらどれだけ素晴らしいだろう」と思っていましたが、父が同様のことをはっきりと口にしたことにとても驚きました。



恨みと憎しみの心を手放した瞬間、すべては一つであることを悟る
幼少の頃、私が流れ星にした願い事は“あらゆる人がブッダになりますように”というものでした。

 

すべての人がブッダになれば、お互いの違いからいじめが生まれることもなくなり、争いも差別もなくなるはずだと思ったのです。

しかしながら、引き算の瞑想をして分かったことは私自身があまりにも利己的だったという事実でした。

 

そのことを知った時は大声を上げて泣きましたね。

 

自分は愛されていないと言っては両親を恨み、他人に怒りをぶつけ、相手を憎み…これまでの人生でなぜ苦痛を抱えて生きるしかなかったのかもわかりました。

 

自分一人の小さな心を通して世の中を眺め、自己中心的に判断して世の中を逆恨みしていたせいだったのです。


 

こんな自分を手放そうという一心で瞑想に取り組みました。そうして、間違っている自分を捨て続けていると、ある時、自分の心が無くなり、意識が一気に広がって「ああ、すべてが一つなんだ」と心から悟ることができました。本当に不思議でした。これまで抱えてきた辛い思いも一緒に溶けてなくなりました。

 

そして知ったのです。

 

今まで周囲の人々と上手くコミュニケーションが取れなかったのも相手を憎み、攻撃的な態度で接してきた自分の心に原因があったことに…。

 

今は誰とでも気軽に会話することができるようになりました。

 

特に母との関係はとても気楽なものになりました。

 

先日、母からこう言われました。

 

「ギヨムは本当に幸福そうね。

 

人生という花がまさに開花する時期を迎えたみたい」。



わけへだてることなく、一つになれる世界作りに貢献したい
瞑想をしてはっきりと悟ったことは“答えは自分の中にある”ということです。

 

自分が変わればこの世の中全体が変わるということを知りました。

 

間違っている自分を手放せば世の中も明るくなり、変わるのです。

 


私はいつもこう思っていました。

 

「なぜ世の中は不公平なのだろうか。なぜ金持ちの人々はとても幸せに暮らしている一方で、貧しい人々は一日一食にもありつけずに飢え死にしているのか。すべての人が平和に暮らせる方法はないのか」と。

 

どれほど立派な制度や思想でも人々の意識が変わらない限り無意味だと思いました。

 

結局、それらは自分の名誉と欲望、執着によって為されるのですから。

瞑想をしてみると、利己的で否定的な自分自身が無くなってはじめて前向きに生きることができ、世の中も平和になることがわかりました。

 

「敵を愛せ」「他人を手助けして生きろ」といった素晴らしい言葉はたくさんありますが、そうした言葉も、頭で考えるのではなく自らの心を手放し本来の心で生きる時に自然に実現するものなのです。

 


人は「自分がやった」と思った瞬間から不幸が始まり、いさかいが生まれるということも分かりました。結局、“人のために生きる”ということも、自分が無くなりすべてと一つになった時に可能なのです。その時初めて国境も人間同士のへだたりもなく、格差による差別もなく、私たちは生きてゆくことができるのです。人々が本来の自分を知り、意識が変わり、自他の区別なく平和に暮らし、すべてが一つになる世界を作ること。それこそ私が取り組みたい仕事です。