昨晩夜新宿西口を歩いていると、「愚痴聞き屋」なる看板をかかげた女性をみかけた。銭はとらないようだが、ずいぶん酔狂な人もあるものだと思った。いわゆる社会勉強なのか、何らかのパフォーマンスとしての意図があるのか知らないが、どのような目的であれ、こうした路傍での運動というのはやはり大切であると思う。営業目的の路上演奏や大道芸はよく見かけるが、僕が見てみたい路傍のプレゼンスというのは少し違っていて、たとえば、池袋の駅前で自転車に載せたヘルメットをひたすらドラムスティックで叩きながら何事かを呟いているおっさんや、明らかに乞食然とした女占い師や、「わたしの志集(ママ)300円」などと書いてある紙をぶらさげて柱の裏側に突っ立っている娘など、何か得体の知れない、パブリックスペースを切り裂くようにして表れる異形たちだ。それらフリークスたちの、自分自身がそこに在るということの意味すらつねに打ち消しつつ在るという非連続性は、観る、観られるという舞台における関係を問い直すひとつのツールとして機能し得るように思う。
そもそも芸と路というのは密接な関係にある。アメリカの民族音楽であるブルーズはもちろん、津軽三味線もそもそもは盲目の男が坊様(ボサマ)として津軽の南北を門付けして歩いた放浪芸に端を発している。江戸、明治初期までは日本の農村、都市空間は現在よりもっと柔軟なものであったのではないかと思う。家々の門前がステージであり、道端が乞食の仕事場であったように。
もちろん前述したようなフリークスたちは芸能民ではないが、歩道、道路、店舗、などと厳然と区画整理された都市空間に不気味なねじれを持ち込んでいるように見える。見慣れた町並を見渡したときに目をとめてしまう、空間の「しみ」のようなものとしてその場限りの書き換えを強要する。
もはや路傍の芸能などというものが勃興する時代ではないが、作品そのものとともに、芸能芸術の場の概念というのは時代の必要に応じて書き換えられていく必要がある。




紺野