どうでも良い話。私の人生の綺麗な部分だけ並べた独り言です。

私は幼稚園くらいの頃から、ラジオやシャーペンを分解することが好きな子供でした。1番はじめに父親が与えてくれた録音機はかなり使い古され最終的には私に分解されました。物語を読んで録音しては、それを別のデッキで流しながら上から声を重ねて録音したり、効果音やBGMをつけたり。カセットテープを引き伸ばして、なぜここに音声が録音されるのかを必死に調べた事もありましたが、幼稚園生の私にはどうしても答えは見いだせませんでした。そこでそれについてさらに深く調べる子供であれば研究者になれたかもしれませんが、やりたいことが沢山あってそこまでには至りませんでした。

小学生の時には、父親の影響もあって簡単な電気、電子回路を作って夏休みの工作として出展してもらった事もありました。キットなので単純でしたが、それに自作の工作をくっつけてオリジナルにする。とにかく何かを作ることが好きで、始めると時間を忘れて取り組んでいました。負けず嫌いな私は、毎年夏休みにはエレクトロニクス工作を出品し、4年生の夏に出した「シャンデリアのある家」というそれが入選。賞品としてCDデッキをゲットしましたが、それも私に使い古されて分解されました。

中学生の時には、気の合う仲間4人で漫画を描きました。当時、クランプという複数名で1作品を描く漫画家に影響されたこともあり、私はストーリーを作る担当、はじめの絵を描く担当で友達もそれぞれの役割を担っていました。今考えればストーリーも絵もハチャメチャでしたが、講談社に持ち込みをしてほぼ門前払いと言ってもよいような評価を受けましたが、それでもめげずにその後も何作か書き続けたけど賞には及ばずでも、仲間でやることは楽しかった。仲間の大切さを学びました。

高校生の時には、音楽イベントのオーガナイザーをやりました。企画する人がいて、アーティストがいて、演出する技術者がいて、お客さんがいて。当時はアーティストが一番輝かしき存在であると思っていたので、それを輝かせる為にはどうしたら良いかを必死に考えました。人前に出るのが好きではなかったので、DTМはやりましたが、自分をアピールする事はなかった。常に黒子でいたかった、それは私が口下手なのや、音楽を聴いていると一般的な人とは違った音として聴こえてしまう私の特徴が、人前に出た時に「この人ちょっと変ね」と言われてしまうのを恐れていたからかもしれません→なぜかベース音だけが浮き上がってきこえるのです。女の子なのに1人でバリカンで頭剃っていた子でした。女の子が特別好きなわけではありません。高校生にして、自分の変な特性を分析したり受け入れる、認識するのは困難ですよ。それは、もがき苦しみますよね。

成人してすぐに、居酒屋の店長をさせてもらいました。店があって、コンセプトがあって、そして個性豊かなスタッフがいて。その中で一体となってやっていくには筋の通ったマニュアル(というか、ブレない芯)があることが重要であることを学びました。そしてこの時、1ヶ月で300時間以上労働し、健康であることの重要性を学びました。一般的には経営学を学ばれた方が実践するといった手順の事を私は逆走し、実地で学んだあとに書物で学んだために、苦労も多かった。しかし、ここで私は、「書物で学ばなくても、実践し続けると答えは出る。しかし、書物にはその"苦労の期間を一瞬で解決できるような過去に努力した人たちのノウハウ"が詰まっている」、ということを学びました。百聞は一見にしかずだけど、バランスよく両方やるのが1番かもしれない。

その後、再び音楽オーガナイザーをやった時には、高校生の時とは全く違った感覚や視点が生まれていたために、スタッフやお客さんも皆輝いていることに気が付きました。そのためにはオーガナイザとして何が出来るかといった発想になりました。得てきた経験は、私を虫にしたり、魚にしたり、コウモリにしたり、鳥にしたりしてくれます。だから、書物による学びと経験は一生涯に渡ってやりつづけていくことは、自分の人生を豊かにすると信じています。

私は、昔からひねくれてました。80人がAといえば、15人はBといい、友人はEで、私1人Zでした。だからって私は同調圧力を察せないKYだったのでZでしたが、途中で「A」を演じていた時期もあり、その時はもがき苦しんでいたようにも思います。映画の撮影に携わられて頂いた時、役をもらった俳優さんが病んでしまった事もあり、様々な事を考えました。この時、元々の発想が(無理せずにAを選択できる人)Aであることがいかに楽で、安定で、心地よくて、共感できる人が沢山いて頼もしくていいものか。マイノリティの辛さを実感しました。多数派であることは、安定かもしれないと気が付きました。全てが歪んでいなくて、自然法則に則った出来事であるならまだしも、矛盾だらけで理不尽で埋め尽くされているこの世の中に、自然体で全てをAと言える人は凄いよね。

しかし一方、マイノリティな発想が予期せぬ出来事をサポートすることもある。誰も考えていないような何かが思いがけぬところで役に立つ。大学で「利他性の生物学的意義」を論ぜよといわれ十分に答えられなかったが、まさにこの部分から考える点ではないかとも思いました。

マイノリティな人は、偉くない!でも、マイノリティだからといって主張もせずに、悲観せずに、こんな人もいてもいい。多数派も偉くない!お互いがお互いをわかり合えば差別や偏見はうまれないでしょうが、社会はそんなに甘くない。お互い謙虚にやっていけばそれが1番良いのではないか?

話し飛びますが、どの業界にいったとしても同じ法則がなりたっている事にも気づいたので、私はそれを今仕事に活かしています。意味が分からないかもしれないけど、それは雨が山を下って川になり、それが海に流れ着いて再び雲になって雨になるのと同じです。((笑)分かりづらい)

すみません、デスマス調になったりして読みにくいけど、通勤電車の中で短時間で書いてるのでお許し下さい。

なんか、書いておきたくなった