●新文化の第1回アジア太平洋デジタル雑誌国際会議の記事を読みました。このシンポジウム、テーマは興味ありましたが申し込む気も失せる参加費20万円で、記事を読む限り行かなくて良かったです。

●記事中、記者が出版コンテンツの多くは、非合理的に創出されている、ということでコミックや文芸の新人発掘、育成を例に挙げて、この投資を合理的に捉えるのは難しく、モバイル関連企業やマーケティング会社などコンテンツ利用企業側のなめらかなビジネス口調に違和感を覚えたとありました。

●確かに記者の危惧するようにモバイル企業やマーケティング会社のいうところのアクセス数やページビューなどというものは、いずれ「実態のないものだった」と言われることになるであろうと私も想像します。しかし、出版におけるコンテンツ制作の投資は合理性がないものと断言できる根拠がよくわからない。もしそうならば、出版は何を土台に商売が成立しているのでしょうか。今となっては惰性というわけですか。

●黎明期のマンガ、アニメ制作の話などを聞くと、確かに当時の制作環境をみればまさに非合理的にも思えますが、1本作品が当たればそれまでの投資を補ってあまりあるほどの莫大な利益を生み出していたわけですから、まずは1本あたりの作品制作でコンテンツ制作ビジネスの合理性を議論することに問題がありそうだと感じます。

●記事を読み進めると「完成するまでに絵のタッチや文体のひとつひとつに編集者が辛抱強く関わり、その結果、ものにならないこともある。この投資を合理的に捉えるのは難しい。」とあり、もしかすると記者が言わんとする非合理性というのは作家との間の関係性ではないかと思えてきました。

●もしそうであるならば、答えは明確だと思います。出版社はコンテンツ制作については合理的であるべきです。しかし、各コンテンツ制作において作家との関係性は情理的であるべきです。この合理と情理のせめぎ合いは、事業経営のどのレイヤーにおいても存在するもので、その回答は実践によってのみ得られるものだと私は考えています。

●この記事後段にあったシュピーゲル・オンライン編集長の経営方針の言葉が印象的でした。「編集と営業の間には”万里の長城”がある。編集は自立した存在であり、営業はこういう記事を書け、と指示してはいけない」。となると昔からよく言われている編集と営業の対立というのは、合理と情理を戦わせるためにも非常に理にかなったシンプルなシステムだったのだなと。

ハブメディア事業についても、ぼんやりとですが営業について考えはじめます。