ただ単に教会で洗礼を受けたということだけでキリスト者ですと言えるものとなることができるのだろうか。

世の中でその人をキリスト者だというレッテルを貼るがゆえにその人を信用することはない。たとえばカトリック信者であるとともに娘をフリーメイソン系列の何者かに嫁がせているとか、キリスト信者であるとともにフリーメイソン系列の家系に連なりその使命・任務を果たすべく職務をするものであるなど、もはやキリスト者という名目のさらにその次に来るのが、キリスト者でありながらもフリーメイソン派の考え行動をする人間であるかどうか、ということだ。単にキリスト教の信者らしいということより、しかるべき権力・力をもっているかどうかのほうが先に立つ。これはすごい欺瞞なことではないだろうか。堕天使の使いに同調した生き方をする者らが、教会のなかにいて権威を振りかざす、世間の人間にキリスト者というのは堕天使の使いに同調した生き方をする人間であるということを示す、ということにもなるからである。それなのに、世間ではその表現がまかり通っているのだから。

たとえ カトリック教会で洗礼を受けずとも天主さまの存在を心から信じて天主さまをお愛し申し上げて、嘘偽りのない生き方を努める人を天主さまは、ほっとくことはないではなかろうか。どうにかしてお助けしてくださるに違いない。わたしら人間にはわからないようなことを、心のうちをみておられる天主さまはなさられるにちがいない。

洗礼を受けたということでただそれだけで人は救われることはなく、洗礼を受けた者は天主さまの道具なりマリアさまの道具となり祈りと働きに努めなければならないと言われている。