聖寵の選択(Gnadenwahl 天主の恩寵選択)ということについては、概ね人は十分に考えず、その概念も全く不明瞭であって誤解されやすく、実際また非常にしばしば誤解されているのである。しかしながら、もしも天主の恩寵選択の真理を正しく理解するならば、天主に対して正に敬虔な且つ感謝に満ちた子たるの気持ち―それは常に新たに天主の恩寵をいただくものであるが―を持つことに非常に多く役立つことが出来るのである。

 ここで特に問題となっている真理は正にこのこと、すなわち「効果的聖寵」(wirksame Guade)と「非効果的聖寵」(unwirksame Guade)とのうち、そのいずれかを選択する者は天主であるということである。ところで、この効果的聖寵は、単に超自然界において善良に且つ功績的に行動する力、能力を我々に贈るのみではなく、更に善い業、つまり功績そのものをも我々に贈るのである。すなわち効果的聖寵は、死に至るまで堅忍して善に留まり得るために必要な力づけを我々に与えるのみではない、否、この聖寵によって、実際に堅忍性そのものが、天主の特別な恩寵の賜として我々に与えられるのである。かようにして天主の恩寵選択そのもののうちには、同時に我々が善業へ、且つ永遠の幸福へ予定づけられている基礎が存在するのである。

 従って天主の恩寵選択については、「単に十分な聖寵」と「効果的聖寵」とが区別される。『十分な』聖寵というのは、悪を避け善を行うために十分な、または足りる聖寵のことである。それは、我々に善をなし、または悪を避ける能力、力を与える。しかし、この概念は、善事がなおも聖寵の助けをもって実際に行われ、悪事が実際に避けられるかどうかということについては何も語らない。十分な聖寵にもかかわらず、悪が行われて善がなされない場合には、我々はこれを『単に十分な』または『非効果的』聖寵と称するのである。これに反して『効果的』聖寵というのは、その助けによって、志した善い働きが実際に成し遂げられる、すなわち、誘惑が克服されるか或いは善業がなされるところのものである。

 幸福になるために十分な聖寵は、すべての人々、特にすべてのキリスト信者がこれを持っている。恐らく目下のところでは、まだ改心するに十分な聖寵を持っていない罪人でも、少なくとも直ちに、言わば祈祷するに十分な聖寵を持つであろうし、そしてもしも彼が、この聖寵を善く利用するならば、更にそれ以上の聖寵を与えられ、終いには改心への直接に十分な聖寵を与えられるであろう。それゆえに彼は、祈祷への直接に十分な聖寵を持つことによって、既に改心への、たとい直接には効果を生じないにしても、間接に十分な聖寵を持ったわけである。同様なことが、聖寵状態のうちに堅忍することについても通用する。義人は誰でも、義のうちに堅忍し得るに十分な聖寵を持っている。もっとも、彼がそのために必要な多くの聖寵を、一度に注がれるようなことはなかろうが、もしも彼が、その受け取った聖寵をその都度善く利用するならば、天主は更にそれ以上に、且つ最期に至るまで、十分な聖寵を与え給うのである。何となれば、トリエント公会議(第六会議、第十一章、デンチンゲル八〇四)が、聖アウグスチノと共に言うように、『天主は御自身が先に見棄てられない以上、天主の側からして見棄て給うことはない』からである。

 天主の恩寵選択の明瞭な概念を得るために、我々はまず、効果的聖寵と非効果的聖寵とに関して互いに矛盾するように見えるところの二つの真理を検討し、それから、その両者の一致を企て、そして最後に、我々の宗教生活のための結論を引き出すこととしよう。

 

一、二つの一致しにくい眞理 前の説明によれば、効果的聖寵と、単に十分な聖寵とは、その作用において非常な相違を示している。そこで問題となるのは、両者の差異はいかに説明さるべきかということである。ただ一瞥したところでは、次のように思われるであろう。――我々はこの差異をば、聖寵の側に求める必要はない。むしろそれは、聖寵に対する人間の自由意思の種々な態容によって十分、完全に説明される。神はすべての人々に対し、十分な聖寵を提供し給う。その聖寵は、確かに一つ一つ程度においては異なるが、しかし各人が受け取る聖寵は、各人のために事実上十分であるというその点においては、本質的に等しいのである。天主がペトロに対し、彼が主を知らずと否んだ後、改心するに十分な聖寵を与え給うたように、ユダに対してもまた、己れの腹黒い行為を痛悔して赦しを求めるに十分な聖寵を施し給うたのである。ペトロの十分な聖寵は、効果的であつた、何となれば、彼は善い自由意思をもつてそれに同意したからである。然るにユダの十分な聖寵は、非効果的にとどまった、何となれば、彼は悪い自由意思をもってそれを拒んだからであると。

この考えにおいては、一つのことが全く正しい、そしてもしも我々がそれを否定しようとするならば、ルーテルまたはカルヴィンと同一の誤謬に陥るであろう。その正しい点というのは、すなわち、人間は実際にその自由な意思決定によって、彼が十分な聖寵に協力するかどうか、またはこれを拒絶するかどうかについて自ら決定するということである。このことを否定する者に対しては、トリエント公会議は破門を宣告している(第六会議、カノン第四、デンチンゲル八一四)。しかしながら、それをもつてしては聖寵の効果性は、まだ完全には説明されていない。人間の意思による自由な選択が、こいでいかに決定的なものであろうとも、我々はそれにも拘らず、次のことを堅持しなければならない。すなわち、或る聖寵が効果的であるか、または効果的でないかということは、やはり全く決定的な方法において、その聖寵の施与者にまします天主にかかるのであると。

正にここで我々は、天主の恩寵選択の大きな秘密に突き当るのであるが、それは非常に難解であり、そして事実、多くの人々を誤謬に導いたのであつた。しかし、次のことは聖書、聖アウグスチノ、および彼と共に多数の教父達、ならびに幾世紀以来のカトリック神学者達の明示する教説である、たとい教会は、それを今日に至るまで信仰箇条として厳粛に宣言しなかったのではあるが。すなわち天主が或る人間に対して単に十分な聖寵の代りに、効果的聖寵を授け給うときには、天主の側からして、より大きな愛と慈悲、より貴い賜物が施されるということである。有効な聖寵の拝領者は、善事をなし、悪事を避けることが出来ることを天主に感謝すべきであるのみでなく、更にその上、彼が実際に善事を爲し、悪事を避けることを、天主の全く特別な愛と恩寵とに帰すべきである。ただに善業を行う能力が、天主より賜わる一つの恩寵であるのみでなく、正に諸々の善業それ自身が、たとい、それらがいかに我々の善い自由意思に基づく業であろうとも、独特な方法において天主の恩寵賜物であり、そしてこの賜物たるや、それらの善業を行うための単なる能力を授与すること以上のものである。ペトロとユダとは、双方とも、天主が彼等に対して改心し得る聖寵を贈り給うたことについて、天主に感謝しなければならないであろう。しかしペトロはその外に彼が実際に改心したことについて、天主になお全く特別に感謝しなければならない。天国における諸聖人は、天主が彼等に対して幸福になり得る聖寵を授け給うたことについて、天主に感謝する義務があるのみでなく――天主に感謝すべきこの理由を、地獄にいる罪人も同様に持っている――、更に彼等が、実際によってもって幸福になったところの聖寵を受領したことについて、天主に対し永遠に全く特別に感謝しなければならない、すなわち、彼等が死に至るまで善に留まり得るに十分聖寵を持ったのみでなく、更に彼等が、実際によってもって善に堅忍して来たところの効果的聖寵を持ったことにつき、換言すれば、天主が彼等に終局的堅忍性の賜物を贈り給うたことについて、特に感謝しなければならぬのである。

この賜物をトリエント公会議もまた、「偉大なる賜物」 (magnum donum) と呼んでいるが(第六会議、カノン一六、デンチンゲル八二六)、この賜物は、最期に至るまで聖寵状態を保たしめるような一聯の効果的聖寵である。もしも個々の効果的聖寵が、これに対応するところの単に十分な聖寵に比して、天主の特別な恩寵賜物であるとするならば、聖寵状態のうちに死亡して天国の永福を獲得させるところの一瞬の効果的聖寵、従って終局的堅忍性の賜物 (donum perseveran-tiae) は、愈々もって天主の全く特別に価値ある恩寵賜物であり、そしてそれは正にあらゆる聖寵中の聖寵である。すなわちそれは、単に十分な聖寵によってすべての義人に与えられるような、堅忍し得る単なる可能性に比すれば、遥かに価値の高い賜物である。

さて効果的聖寵が、真に天主の側からの特別な恩寵賜物であるということを、我々は確実に聖書から引き出すことが出来るのである。救世主は、国王の婚礼の饗宴と、婚礼の服との比喩について説教し給うた後に、『召されたる人は多けれども、選ばる人は少し』と結んで居られるのである(マテオ22ノ14)。天主の国の婚礼の招待は、多くの人々に、否、すべての人間に対して発せられる。一切の人々は、この招きに応じるに十分な聖寵を持つのである。しかし、全部の者がこれに従うのではない、多くの人々は招きに耳を傾けない。このことはまた確かに、彼等が聞こうと欲しない、天主の恩寵の召しを意に介しないということからも来るのである。それにも拘らず救世主は、その召しに従って、婚礼の服を着て婚礼の宴に出席する人々を『選ばれたる者』と呼び給うのである。それ故に彼等は、同様な招待が発せられ、同様な服が提供された他の人々に比して、天主によって選ばれたのである。彼等が出席したのは何に基づくかといえば、それは、召された人々が、よってもってその召しに従ったところの自由意思と、その召しに従うことを始めて可能ならしめた招待とのみに基づくのではなく、更に召し給う天主にも基づくのである。つまり天主は、特別な慈悲からして、天主の国に実際に歩み入るように選び給うた人々をば、実際に召しに従うように召し給うた、すなわち彼等を単に十分的にではなく、効果的に召し給うたのである。

同様なことを聖パウロは、ロマ書第九章の中で詳しく述べている。この書簡の教理的部分の最終篇である第九章乃至第十一章において、この使徒は彼自身が非常に深く感動させられた問題を取扱っている。すなわち、予言者達により天主の名において、救世主と、救世主時代の素晴らしい救霊の宝とを約束されたところの神の選民が、今では却ってその大多数が救世主を棄て去り、その救霊の宝を失っているのに反して、このような約束を与えられなかった異邦人の方が、そんなに数多く天主の国に入るのは何故であるかという問題についてある。天主がイスラエル人に対し、救霊の恩寵を施すことに欠けるところがあり給うたのではないことを、パウロは見損じてはいない。その声は全世界に行き渡った(ロマ10ノ18)ところの使徒達は、まず最初に、選ばれた民の許に遣わされたのであるが、そこでは果してイザヤが予言した事柄が起った、『いかなる時にても、我れ愚かにして且つ頑なる民に手を差し伸ぶるなり』(ロマ10ノ21)。約束された賜物は、アブラハムの肉親的子孫へではなく、彼の霊的後裔へ、すなわち信仰において、すべての信者の父たるアブラハムに似ている人達へ与えられたのである。しかし、イスラエル人の不信仰は最終決定的なものではないであり、審判の日の終りにおいて、イスラエル民族もまた改心するであろう。この救霊計画をば、天主は賢明な諸理由からして、そのように立て給うたのである(ロマ第十一章)。天主は実に、その欲するままに全く自由に恩寵を分配し給うのである。

この関係において、パウロは次のように説き示している。――誰がキリストに対する信仰に達するかということは、独りかの(十分な聖寵によって支えられた)人間の意思にのみかかるのではなく、このことはまず第一に、憐み深い天主の事柄である、すなわち天主は自由な裁量によって、効果的聖寵を選抜の器(選ばれた人々)に与え給うのである。天主は、既に旧約の諸々の特権を附与し給う時に、そのように行い給うた。天主はこれらの特権をば決して常に必ずしも、より価値ある者のように見えた人や、または人間的判断からすれば、その特権に対して最大の請求権を持った人に贈り給わずに、却って天主が自由な寵愛からして、それを施すように定め給うた人々に贈り給うたのである。天主はイスマエルを棄てイザアクを選び給うた。エザウとヤコブとがまだ生れずそして何らの善悪をも行わないうちに、天主は既に、正にその完全な自由選択を示さんがために、エザウよりもヤコブを愛し、そして兄は弟に仕えるべきことを好むと仰せ給うたのである(ロマ9ノ6~13) ここで人は天主に対して、何らの不正義や不公平の非難を加えることは出来ない、何となれば天主は、その恩寵を分配するのに全く自由にましますからである。天主はモイゼに語り給うている、『我敢えて憐まんと欲する人を憐み、敢えて慈悲を施さんと欲する人に慈悲を施すなり』と。パウロはこれから推論している、『されば、そは欲する人にも走る人にも由らずして、隣み給う天主に由るなり』と。我々自身の骨折りと努力とが最後において決定的なものではなくて、むしろ天主の憐み深い救霊意思が最後の決定をするのである。この恩寵選択において不利を受けたと感じる者が、苦情を言おうと欲したとしても、それはあたかも一つの土器がその製作者に向って、『何故に汝は我をかく造りしぞ』と非難するようなものである。製陶工は陶土に対する支配権を持ち、そして同一の土塊をもつて随意に華美な器でも醜い器でも造ることが出来る。そのように天主も、怒りの器と憐みの器とを造り給うことが出来る。前者は、終りには永遠に破滅するものであり、後者には天主が豊かな恩寵を特別な方法で授け給うのである(ロマ9ノ14~24)。

この種の諸章句は、あたかも天主が、選ばれた人々には永遠の生命を得させるように予定し給うたと同様に、若干の人々には最初から永劫の罰を受けるように予定し給うたかのように、カルヴィンその他によって誤解された。しかし、それは非常な謬説であって、パウロは、かりそめにもかかることを教えたことはなかったのである。人は僅か一、二の章句からして、この使徒の全体の聖寵論および予定論を見出だそうとしてはならない。ここでは彼は実に、いかに天主の恩寵選択が、我々の霊魂の救済の事柄において決定的なものであるかを専ら注意させようと欲したのである。既に次の章およびその他の多くの章句において、この使徒は次のことを強調している。すなわち天主は、失われて行く人々に対しても十分な恩寵を与え給うこと、および、いかなる者でも、自由気まな悪意をもつて天主の恩寵を濫用し棄て去ることがないならば、その人は失われて行くものではないということである。『天主は一切の人の救われ、真理を知るに至らんことを望み給う』(チモテオ前書2ノ4)と、同使徒は後日、愛弟子チモテオに書き送っている。

しかしながら一方、ロマ書第九章に誌されている事柄は、誤りのない神的真理であって、聖パウロは、ここで、それを次のように明瞭に言い現わしている。すなわち、聖寵が効果的であるかどうか、人間がそれに従って善を行い、善のうちに堅忍して非常に幸福になるかどうか、或いはまた反対に、聖寵が非効果的に止まり、従って人間が聖寵を拒むことによって益々悪に固まり、そして十分な聖寵を授けられるにも拘らず失われて行くかどうかということは、いかに人間が志し且つ走り廻っても、それは専ら人間のみにかいるものではなく、却って最後の決定権は、自由に恩寵の選択をなし給う天主の許にあるのであると。

一体このことは、天主の教会においてもまた、常にそのように理解された。それは最初には余り理論的には表明されなかったが、しかし教会の祈祷の慣習のうちに含まれていた。Legem credendi lex statuat supplicandi―『信仰すべき事柄は、祈祷の規範よりして知らしめらるべし』――、それは正に、聖寵論のうちのこれらの問題について、古くから強調されたところの一原理である(デンチンゲル139)。教会はその祈祷の中で、天主に対して、ただに善を行う力を乞うのみでなく、善業それ自身、徳および聖性そのものを乞うのである。天主よ、我等をして信仰を堅く守り且つよく業に励むことを得しめ給え、我等をして天主の掟を悉く守るを得しめ給え、我等の頑なる意思をも矯めて善へ導き給えと。聖アウグスチノは、その懺悔録の中で非常に美しく祈祷しているのである、『汝の命じ給うところのものを授け給え、而して汝の欲し給うところのものを命じ給わんことを』と。正にこの点を傲慢なペラギオは誹謗したのであつた。彼の考えによれば、天主の命令は我々自身がこれを実行すべきであって、天主に向ってその実行を我々に授け下さるように乞うべきではないと。しかし聖教会は、この論争においてアウグスチノに味方をし、ただ天主の恩寵によってのみ、我々は我々の善への意思を使用するのであると教皇達は説明した。天主は我々の心のうちに善の志を用意し給う。我々が自由意思をもつて立てる功績も、実は天主の恩寵の賜物である。聖寵は我々の心のうちに働いて、我々が罪から浄められること、および信仰深く従順で且つ敬虔であることを、我々に望ませるようにするのである(デンチンゲル33以下、141、177以下参照)。 確かにこの全体のことは、単に次のように考えられているのではない、すなわち聖寵は、それらの事柄が起きる可能性を我々に与えるのみであると。否、却って次のように考えられているのである。――非常にしばしば善事が実際に起きるが、我々はこの実際的生起をば我々自身の自由意思に負うと同じ程度に、否むしろそれ以上に天主の恩寵に負うのであると。

確かにこの難解な教説は、一切のことが聖寵に帰せられるために、人間の自由な意思決定の働く余地はもはや全然残されていないというような誤解へ導き易いのである。この誤解は最も不幸な結果を生じるかも知れない。というのは、人間は次のように自ら言うかも知れないからである。――いかに私が努力しても、それは全く何の役にも立ち得ない。私が有徳で且つ幸福になれるかどうかということは、ただ天主のみにかかるものであつて、私が自分の志すところのことを行うが行うまいが、全く無関係であると。更に次のように考えるかも知れぬからである。――効果的聖寵を持つ人々だけが、幸福になることが出来る。他の人々は、真に十分な聖寵を全然持っていない。従って天主は、一切の人々の救いを少し真剣に欲し給うのではなく、ただ実際に幸福になるところの選ばれた人々の救いを欲し給うのみであると。

 

これは不幸な誤謬であって、カトリック教説は、かかる見解からは遥かに隔たっているのである。同教説はここでもまた、正しい中道を行くのである。すなわち、それはまず一方において、人間の意思の自由と責任性とを完全に存立せしめて、次のように、あらゆる鋭さをもって言うのである。水と火が、生命と死が汝の前に置かれている。汝は自ら決意しなければならない、そして汝の永遠の運命は、汝自身の選択にかつているのである。天主は一切の人々が幸福になることを真剣に欲し給い、そして一切の人々に対し、そうなるために十分な聖寵を与え給うのであると。しかしながら、教会はかように教えながらも、他方においては、天主の恩寵の偉大さを少しも損うことをしない。すなわち教会は右に述べたことによって、すべてを決定する効果的聖寵の勝利性を決して否定しないのである、というのは、この効果的聖寵は、天主の御判定によって達成すべしとされたところのことを誤りなく達成するからである。聖寵の効果性は、カトリック教説によれは、天主の寛大性より発する特別な賜物であって、それを授けることはただ天主の意思のみにかかり、天主はそれを特別に仁慈な恩寵選択によって、その欲し給うところの人に授け給うのである。

聖寵の効果性は、人間の自由意思にかかる。聖寵の効果性は、天主の恩寵選択にかかる。この二つの、一見して互いに矛盾するように思われる命題は、いかにして一致せしめらるべきであるか。

 

二、二つの真理の一致  右に掲げた二つの相対立する真理を、いかに調和させるべきかの方法については、教会は何も決定していない。神学者達は、余程以前からこの問題を明らかにしようと努力して来たが、今日に至るまでこの点については意見の一致を見るに至らない。ここでは、個々の聖寵学説の正確な区別づけに立ち入ることは差し措いて、我々はただ次の説明を堅持することが出来るのである。

 

天主は全能全知である。天主はその全能により、有りと有らゆる恩寵を思召しのまにまに自由に取扱い給う。天主は、一人一人のために無限に豊富な恩寵を用意し、それをもつて人間の意思の上に働きかけ給うことが出来る。しかし、天主はまたその全知によって、或る一つの恩寵を授けようとまだ決心し給わぬ前に既に、各人が、各場合に、すなわち誰かの一生涯中に起り得るあらゆる機会と状況とにおいて、各々の可能なる限りの恩寵の助けの影響の下で、いかに決定するであろうかということを――善く言うならば、いかに自由に決定するであろうかということを、完全に誤りなく、はっきりと確実に予見し給うのである。これらの聖寵は実に、人間の意思を強制し強要するものではなく、却ってただ善へと刺戟するのみである。これを受け入れるか、或いは拒むかどうかは、常に人間の自由であり、そしてその決定に対して人間は自ら完全に責任を負うのである。しかし、天主はこれらの自由な決定を予見し給う――天主がいかなる認識方法をもつて、それらの決定を先見し給うかについては、神学者によって説明は全く区々としており、ここではその詳しい研究には立ち入らないこととする。少くとも現今、神学者達がやや口を揃えて言うところによれば、天主は各々の人がその一生涯中において、本当に実際上なすところの諸決定を先見し給うのみでなく、更に各人が遭遇し得るであろうところの最も種々様々な機会において、且つその場合に天主が与え給い得るであろうところの最も種々な恩寵の影響の下において、各人がなすであろうところの一切の決定を予見し給うのである。従って天主は、既に誤りなく次のことを予知し給う。すなわち、もしも我れがペト口に対し、 あの特定の状態において、 まず仮りにその否認(キリストの受難のとき、キリストを知らずと否みたること)の後において、全く特定のこの恩寵か他の恩寵の刺戟を与えるならば、彼は同じ自由意思をもってそれに従い、そして改心するであろう。然るにもしも我れが、彼に対してあの同じ状態において、この或いはあの恩寵の刺戟を与えるならば、彼は同じ自由意思をもつてそれに逆って改心しないのみか、却って一層悪にこり固まるであろうと。全く同様に天主は、ユダのために先見し給う。すなわち、もしも我れが彼に対して或る特定の状態において、まず仮りに彼の裏切りの後で、この特定の恩寵を与えるならば、彼はそれを受け納れて改心するであろう。然るにもしも我れが彼に対してあの特定の(それ自身同様に十分な)恩寵を与えるならば、彼の悪い意思はそれを自由に拒んで改心しないのみか、却って絶望に陥るであろうと。もっともかく言えばとて、あたかも或る聖龍は強制的に何々させ、他の聖寵はそうしないかの如くに解するのではない。一切のこれらの聖寵は、人間に完全な自由を許容する。しかし天主は既に予め、これらの或いはそれらの事情の下において、およそ有り得る限りの聖寵の影響の下において、何をペトロが、何をユダが、何を他の人がするであろうかということを知り給うのである。およそ被造物の意思がいかに善良であろうとも、事情によっては或る種の聖寵に対して自由意思をもつて逆らい得るであろう、そしてそのような事情をば、全知全能の天主としては、もちろん知ることも出来るし、また起らせることも出来るのである。要するに被造物は、いかなる場合においても絶対にいかなる聖寵にも逆らわないというほど、それほどまでに善良ではない。また他方、いかに悪い意思をもつ被造物でも、或る事情の下では極く特定な聖寵の影響に対し、自由にこれに従って改心するであろう、そしてそのような事情をば天主はその全知全能をもって知ることが出来るし、また起らせることも出来るのである。要するに被造物は、いかなる事情の下においても、あらゆる聖寵を拒んで受け入れないほど、それほどまでには悪くはないのではない。

このように誤りなくすべてを知って、天主は恩寵の選択をなし給うのである。全く自由に天主は次のように決定し給う。――我はペトロに対してこの恩寵を与えるであろう、すると彼はそれに従って改心するであろうことを我は知っている。そしてユダに対しては別のあの恩寵を与えるであろう、すると彼はそれをもつてしては改心しないであろうことを我は知っていると。かようにして始めて真に完全に人間の自由と責任とが保たれるのである。すなわち、ペトロは、自由な善い意思をもって聖籠の呼びかけに同意するが故に改心する、このことを天主は予見し且つ欲し給うた。ユダは、自由な悪い意思をもつて聖寵の呼びかけに対して頑なであるために改心しない、このことを天主は予見し且つこれをそのままに放任しようと決意し給うたのである。しかしながら他面において、決定権は実に天主にあるのである。ペトロの改心が実際になし遂げられたということは、天主が正にこの聖寵を与え給うたことに由るものであつて、天主はそれが改心を起させるであろうことを予知し給うたのである。然るに一方、同様に天主は他の恩寵を授けることが出来給うたであろうが、それについて天主は、その恩寵の影響の下では改心は成就されないであろうということを、同様に確実に予見し給うたのである。何が起るか、改心するか改心しないか、それは最後に天主が、この特定の恩寵の選択によって決定し給うたのである。しかし、いづれの場合でも、聖寵は真に十分なものであつた、たといそれが改心を達成したにせよ、しないにせよ。しかしながらペト口は、いづれの聖寵を与えられたにしても、これに従うか否かは真に自由であり且つ完全に責任を負うたのである。

たといペト口は、全く自由に聖寵に協力したとはいえ、天主が彼に改心し得べき聖寵、すなわち改心するに十分な聖寵を与え給うたことについて天主に感謝すべきあらゆる理由を持つばかりでなく――天主に感謝すべきこの理由をユダもまた持つたであろう――、天主が彼に実際に改心することを得しめた効果的聖寵を与え給うたことについて、更により多く天主に感謝すべき理由を持つのである。これに反してユダは自ら言わなければならない、私は失われて行った、何となれば私は救われようと欲しなかつたから。天主は私に対し、よってもって改心しようと思えば出来たところの聖寵を与え給うたのではあつたがと。もちろん彼は更に言うことが出来る。天主は私に対しては、ペトロに対するよりも寛大さが少なかった。天主は、予知していられた通り、私の改心をなし遂げるであろうような聖寵を、特別に恵み深い御好意からして私に与え給わないで、反対に効果のないことを予知し給うたところのさような恩寵を与え給うたのであると。

しかしながら、一体ユダは、このより少い御好意について天主を非難し得るであろうか。もし我々がこの問題を、単に表面的に観察しただけでも、我々は次のように考えることが出来るであろう。――確かに天主は、ユダに対して何らの不正を加え給うたのではない。ユダが罪を犯し硬化したことは、実に、彼が与えられた聖寵に協力し得たであろうのに、協力しなかったことに由るのである。それ故に彼は、己れ自身の責任によって失われて行つたのであつて、天主の正義そのものは明らかに保たれているのである。しかし、天主は少なくともユダに対するにおいて欠けるところがあり給うたのではなかろうか。天主は、ユダがいかなる恩寵をもつてすれば改心し幸福になり得るであろうかということを知り給うていた。そして天主はそれを彼に与えることが出来たのに、それを彼に与え給わなかつた。これは愛の不足ではなかろうか。もつとも、そのようなことは無限に善意にまします天主にあっては、仮りにも考えられてはならないことではあるが。

確かにユダは、ペトロに与えられたような特別な愛、お恵みを授けられなかつた。然るに天主はペトロには、首尾よく成果の得られることを予見し給うたところの恩寵を選んで与え給うたのであつた。しかしながら天主はユダに対して、この特別な愛を授ける義務があり給うたであろうか。我々はまず事柄の真相を熟考することしよう。天主がユダに賜うたところのものは、すべて非常に善く且つ有益なものであつた。それは完全に十分な、しかも豊かな溢れる恩寵ですらあつた。幾年もの間、キリストは彼に対して極めて間近から諸々の大きな恩寵を施し給うたのである。その上、最後の晩餐には、弟子の足洗い、裏切の予言、 さては『友よ、 何のために来れるぞ」(マテオ26ノ50) との御言葉があつた。すべてこれらの豊かな恩寵は、ユダの頑な心によって弾じき返され、その心は益々頑固になつて行つたのである、そしてその一切のことは、ユダ自身の責任によるものである。

さて確かに天主は、もしも他の恩寵をユダに与えるならば、それは彼の固い心を和らげるであろうことを知り給うていた。しかしながら天主は、無限の善意を持っておられるとはいえ、この恩寵を彼に授ける義務が実際あり給うたであろうか。換言すれば、天主はユダに対する真の愛から、彼に与えたいと思召す善い且つ豊かな恩寵をば、ユダが悪意をもつて拒んで無にするであろうことを既に予知し給うているという この事情は、天主をしてそれ自体非常に善い計画を中止せしめるに足りるであろうか、すなわち、他の恩寵を与えるならば好い結果を生じることを天主は予知し給うているのであるが、その恩寵を与えんがためには、天主は当初の御計画を実現してはならず、しかもそれを変更する必要があるので、それを中止し給わなければならなかったであろうか。もしも果してそうであるとするならば、被造物の悪意は、全能の天主より強力であると言わなければならぬであろう、何となれば、その被造物の予見された悪意は、天主を強制して、もしそうでなければそのまま実行し給うたであろうところの、且つそれ自体全く善いところの事柄を中止せしめ、そして他の何ものかと取り代えさせるからである。否、そのようなことは、あり得べきではない。もしもそうだとするならば、天主はもはや最高の主ではなくなるであろう。天主は無限な御好意を持ち給うにも拘らず、御自身の最高の支配権および独立権に反するような或る事柄を行う務を自ら負い給うことは出来ない。天主の善意はいかに無限であろうとも、天主をばその邪惡な被造物の奴隷にすることは出来ない。然るに、もしもこれらの被造物が、正に彼等の悪意によって、天主をば強制して善いことを中止せしめるであろうならば、天主は彼等の奴隷となり給うであろう。もしもそうなるならば、ダマスコの聖ヨハネが言うように (De fide orthodoxa 4, 21)、悪が善に勝つこととなるであろう。すなわち被造物の邪な意思が、無限に善なる天主に対して最後の発言権を保持することとなるであろう。

さようなことは有り得ないし、また有つてはならない。そしてそれ故にこそ、多くの被造物が自由の濫用によって己が身を滅ぼすことを、天主は静かに放任して置くことが出来給うし、またそうしてよいのである。それは専ら彼等自身の責任である。もちろん、この際、天主はこれらの被造物のためにも、いかなる恩寵が効果的であるかを知っておられ、そしてもしも天主が欲し給うならば、それらの恩寵を彼等に与え給うことが出来るであろうということは、なおも残されているのである。もしも天主がそれらの恩寵を授け給うならば、天主は彼等に対してより大きな愛を施すことになり給うであろうが、しかし天主はそれを施す義務は決してないのである。これに反して実際に改心する人々、実際に善を行い、そして堅忍して善に留まる人々に対しては、天主はこのより大きな愛を施し給うのである。しかも彼等といえども、この愛をいただくべき何らの請求権を持たないのであって、もしも天主が、彼等の自由意思の責任によって効果を生じないことを予見し給うような恩寵をば、彼等に対して与え給うたとしても、天主は彼等に対して何らの不正を加え給うたのではない。天主が彼等に対して実際にこれらの単に十分な、非効果的な聖寵を与え給わずに、むしろ効果的聖寵を与え給うということは、彼等に対する特別な愛であり、好意であって、彼等はそのために天主に対して永遠に全く特別な感謝を捧げる義務があるのである。 

 

三、我等のための結論  我々は今や、単に十分な聖寵と区別して、効果的聖寵とは何であるかということを理解した。かようにして我々は天主の恩寵選択、選抜および予定の秘密の中に一督を投じることが出来た。もし人が、この秘密をカトリック教説の精神において正しく把握するならば、この秘密はそれ自体何ら恐るべきもの、不安がらせるものを持たないのである。反対に、それは我々の宗教生活にとつて、ただ益があり得るのみなのである。

第一に、この教えは、正に良心的且つ熱心に天主のあらゆる恩寵に協力するよう我々を鼓舞するであろう。我々が協力するか、しないか、我々が誘惑に打ち勝つか或いは屈服するか、功績のある善業がなされるか或いは悪業がなされるか、それは全く我々の自由意思の決定にかかるのである。それ故に我々は、聖パウロの訓戒を聴くことしよう。曰く、生活は勝負に似ている。汝等は賞を得るように走れ! 我れ立てりと信ずる者は倒れざるよう注意せよ(コリント前書9の24、10の12)と。この使徒は自身で最良の模範を示している、『我れ既に目的を達することを得たり、若しくは我れ既に完全なるものになりたりと言うに非ず……兄弟達よ、我れ目的を既に達したりとは想わず、ただ一事をなすのみ、すなわち我が背後に在るものを忘れて我が面前に在るものに向いて努むるのみ。目的を眼中に置きつつ我は在天の天主がキリスト・イエズスに由りて我を召し給える褒美を得んとて追い求むるなり』(フィリッ ピ3の12‐14)。 この生活の真剣さ、この救霊のための熱心さは、聖寵の選択および人間の自由に関するカトリック的教義から必然的に生じるのである。

第二に、この教えを熟考することは、我々を天主に対する正しい子たるの関係へもたらすのであリ、そしてこの関係に、全部とは言わないまでも、実に非常に多くのことがかかっているのである。聖アウグスチノは、天主の恩寵選択に関する真理をば、聖パウロの言葉(コリント前書4の7)をもつて好んで表現している、もつとも、その言葉はそこでは直接には、別の或る事柄に関係しているのではあるが。曰く、『汝に優越を与うる者は誰ぞや。汝の持てるものにして、貰わざりしものは何かある。もし汝がそれを貰いしならば、何ぞ貰わざりしが如くに誇るや』と。『汝に優越を與うる者は誰ぞや。』もしも汝が信仰深いキリスト信者であり、 天主の掟を守り、善業を行い、そして最後に至るまで万事において善に留まり、かくして他の多くの人々が善良になることなしに悪に留まり、或いは善良になつた後でも、忍耐して善に留まらずに再び悪に転落するとか、または天主の恩寵を拒んで悪に固まり、そして永遠に失われて行くのに比して、汝がそのような非常に優越したところを持っているとするならば、一体誰が汝にこの優越性を与えるのであるか。いかに汝が絶えず自由意思をもつて聖寵に協力することによつて、他のそうしない人々よりも優れていようとも、汝の優越性の一番最後の根拠は、それにも拘らず結局、天主が自由な善意をもつて、汝に対する特別な且つ不相応な御憐みからして、かような一つの聖寵体系を選択し、そして汝に対して次のような諸々の聖寵を賜うたことにあるのである。すなわち、それらの聖寵について、天主は、汝がそれらを善く使用するであろうこと、およびそれらが汝のために効果を生じるであろうことを予知し給うたところのものである。もつとも一方、天主は汝に対して、さほどに特遇されない他の人々と同様に、単に十分な聖寵を授け給うことも出来たのであり、そしてそれらの聖寵は、汝の責任において非効果的なものに止まっていたであろう。それでは、悪い人々に比して、汝に優越性を与えるものは誰であるか。それは、善良な意思を持つ汝自身ではなく、むしろ天主であり、主なのである。

『汝の持てるものにして、貰わざリしものは何かある。』 最も多く汝自身の業であるかのように見えるところのもの、例えば汝の善良な決意、汝の善業、汝の諸々の徳、といったようなものでも、最後の根本においては、ただ天主の憐み深い愛よりする特別に大きな賜物、全く自由な賜物であるに過ぎないのである。それらの事柄が生じたのは、天主が、他の非常に多くの人々に比して、汝に対し効果的聖寵を選び給うたからに外ならないのであり、そしてそれらの他の人々を天主はそれほど特別に恵み給わずに、単に十分な聖寵を与え給うたに過ぎないのである。『されど汝がそれを貰いしならば』 もしも汝の善業および諸徳が、効果的聖寵のお蔭により、天主が汝に授け給うた特別な賜物であるに過ぎないのであるならば、『何ぞ貰わざりしが如く誇るや』である。どうして汝は、汝の善業と諸徳とが、結局は汝自身から生じたものであるかの如くに、傲慢に自惚れてそう妄想するのであるか。どうして汝は、高慢な軽蔑をもつて、他人を見くだすのであるか。ただ常に銘記せよ、汝は真に一切のものをば天主の恩寵に負うものであることを。そして汝もまた救霊秩序の中では、使徒パウロがエフェゾ人に書き送ったように(エフェゾ2の10)、全くもって『天主の作品』であり、そして『イエズス・キリストにおいて善業をなすべく造られたる者なるが、天主は我等がその(善業)の中において歩むよう予め備え給いしなり。』ということを。

『汝がすでに持てるものを保ちて、汝の冠を誰にも奪われざるよう注意せよ』(黙示録3ノ11)恭敬によって、それを保てよ、何となれば、『天主は傲慢な者には逆らえども、謙遜なるものには恩寵を賜えばなり』(ペトロ一5ノ5)祈りによってそれを保てよ。効果的聖寵は天主の自由な賜物である。汝はそれを要求することも、請求することもできないし、また厳格な本来の意味においてそれをかち得ることもできない。汝は、乞食が施し物を乞うように、ただ聖寵を乞い且つ嘆願しえるのみである。そのことは、汝のなしえることである―――もちろんこの場合でもただ天主の恩寵の力によってではあるが、しかしその恩寵は確かに汝の自由な取り扱いに任されている―――、そしてそのことを汝はなさねばならぬのである。それ故に、聖アウグスチヌスとともに祈れ、『汝の命ずるところのものを授け給え、而して汝の欲するところのものを命じ給え』と。祈れ、聖教会の導くままに、正しい信仰を、強い希望を、真の愛を保たんことを。誘惑に打ち勝ち、忍耐して善に留まり、幸福な死を遂げ、そして永遠の天国の歓びを得るように祈れ。そうすれば、天主は忠実にましますから、良い方法を授け給うであろう(コリント前10ノ13)このことを天主は約束し給うたのである。

我々は全く天主の手中にあり、栄えるも衰えるも専ら天主にかつているという確信は、我々を恐怖と臆病とをもつて満たしてよいものではなく、反対に、我々にまさしく子供のような信頼の念を注ぎ込むものである。天主は、何が我々の益になるかということを最もよく知ってい給い、そして我々は天主の御手の中において、最もよく保護されるのである。最後に我々は、天主の恩寵選択による救済予定の思想が、聖パウロをいかばかり喜ばしい信頼の念をもつて満たしたかを、彼自身の口より聞くこと」しよう。実にそれは、天主の効果的聖寵に対する真の歓びの讃歌であり、それを彼はロマ書第八章において歌っているのである(8ノ28~39)。 曰く、

我々は知っている、天主を愛する人々にとっては万事が最良の結果となることを、何となれば、彼等は天主の選びによって召されたからである。けだし、天主は予め選び給うた人々をば、また御子の像に似るように予定し給うた、これは御子が多くの兄弟の中で長子となり給うためである。しかし、天主が予定し給うた人々は、これをまた召し、そしてその召し給うた人々は、またこれを義とならしめ、そしてその義とならしめ給うた人々は、またこれに光栄を帰せしめ給うた。従って我々はそれ以上、何を言うべきであるか。もしも天主が我々の味方にましますならば、誰が我々に敵対するであろうか。天主はその御独り子をすら惜しまずに我々すべての者のために、付し給うた御方であるから、どうして御子と共に一切のものを我々に賜わらないことがあるであろうか。誰が天主の選び給うた人々を訴えるべきであろうか。それは、彼等を義しと宣言し給う天主である。 誰が彼等を有罪と宣告すべきであろうか。それは、死んでもなお且つ復活して天主の右に坐し給うキリスト・イエズスであつて、しかも彼は我々のために執り成し給うのである。誰が我々をキリストの愛から引き離すべきであろうか。悲哀か、苦難か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、或いは剣か。次のように書きしるされている――汝の御ために、我等は毎日死苦に遭い、犠牲の羊の如くに看做されると。しかし我等は、我等を愛し給う御者によって、この一切の事のうちにおいて常に勝利を占めるのである。何となれば、我は確信する、死も生も、天使も権勢も、現在も未来も、力も、高きも低きも、その他いかなる被造物も、我が主キリスト・イエズスのうちにある天主の愛から、我々を引き離すことは出来ないであろう。