写真1(↓):満蒙開拓平和記念館の案内(同館パンフレットより)

 

 

写真2(↓):長野県黒台信濃村開拓団御柱祭の記念写真(同館図録より)

 

 

老若男女が村単位で満州へ移住し、郷里の祭りも行われていた様子がわかります。

 

写真3(↓):証言の部屋(同館図録より)

 

 

官民そろっての満州移住推進の流れに沿って、希望を胸に移住した人々は、1945年のソ連侵攻と現地パルチザンの襲撃により、絶望的な逃避行の途上で、あるいは難民収容所で多くが命を落としました。

 

この部屋には、その体験談が記録されていました・・・メモ

 

その中で、ある女性の証言が大変印象に残りました(以下要約)・・・下差し

 

「もうだめだということで、みなお宮のようなところに集まり、集団自決をすることになりました。その時、高台から中国の人がみなに向かって何度も叫んでいました。『みなさん、死んではいけません、生きて帰ってください!』と」

 

日中双方に多くの犠牲をだした「満蒙開拓」とはいったい何だったのか・・・

 

現館長の寺沢秀文氏は次のように語っておられます・・・下差し

 

「この記念館は、開拓の名前での渡満でありながら、その多くは現地の人々の土地や家屋を収奪しての侵略の加担でもあったという『満蒙開拓の被害と加害』の両側面をきちんと取り上げていくことを基本としています」(図録より引用)

 

本記念館は、日本の近現代史の重要な資料館として、修学旅行先にも選ばれ、ポーランドのアウシュビッツ博物館との交流もあるそうです・・・真顔

 

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