引き寄せの法則~エイブラハムに学ぶ~
・・・第二章・・・
私は、前記事で「☆私がこの世に生まれた理由☆」を書いた。
では実際、私が納得してどこまで悟れたのか?知るには「感謝することの意味を理解する」に繋がると思う。
正直私は、前記事を書く数分前、いや、書いた後もまだ悟れていない部分があった。(それはまだ過去に執着していた部分があったからである)
しかし書いた後の自分の文章を読んで改めて納得する部分があった。
それが「感謝することの意味」である。
これまで私は両親のことなど、本当、バカだのなんなのと文句ばかりを書いてきた。
それこそアメンバー様限定記事の中では「クソバカ親父」とまで罵っていたほどである。
しかし私がこの世で「怒哀」を学ぶに当たって、ここまで私を怒らせ悲しませる存在が必要だったのも事実なのである。
本気で私に怒りを感じさせる存在。
それがなければ私は「怒り」を体現することは「不可能」である。
母に関しても同じ。
それだけではない、小学校や中学校、社会に出た時、必ず存在していた「嫌な人」
それも、その人がいなければ私は「怒り」や「悲しみ」「苦しみ」や「不平」「不満」体現することはできなかったのである。
だからこそ、そこに両親は存在し、嫌な人達も私を怒らせたり、悲しませる為に存在していたのだ。
そして、その役目が終わった両親はこの世を去った。
言い換えれば、変な言い方になってしまうが、逆に言えば彼等は私の「被害者」である。
私から恨まれ、悪人呼ばわりされ、「被害者」である。
そう考えると、これまで「怒っていた感情」や「悲しみ」もなぜか「感謝」へと変化していくのが分かる。
私に「怒り」や「悲しみ」を体現させる為の「存在」
とても尊い「存在」ではないだろうか?
もしもそんな存在がなかったら、私は他の人の「怒り」「悲しみ」「苦しみ」を知ることもできなかっただろう・・・。
だからこそ、そのお手本となる「存在」が必要で、それが「両親」であったのである。
そう悟ると本当「感謝」しか出てこない。
私の為に「どうもありがとうございました」となる。
きっと本人達だって本当はしたくなかったかもしれない。
でも、私が生まれる前、私自身があの世で「両親は私に怒りと悲しみと苦しみを教える存在」だと設定してしまった為、嫌な役を演じてくれていたのだ。
「ブログ」もそう考えると、これまで出会った人達にも「感謝」である。
もし、あのような出来事がなかったら、私はこうして思い切ってアメバブログ(メインブログとして)で綴ることもなかっただろう。
ヤフーブログが、あんな風に「生まれ変わります」と言うお知らせがなかったら今でもヤフーブログで書いていただろうし、今だに気づけなかったと思う。
今はこうして毎日のように気ままに綴ることが出来るのは、そう言った人達のお陰なのである。
こちらに来て彼此丸一年が過ぎたが、本当、気ままにブログを書いているし、自分とこうして心底向き合うことができたのだから、感謝の極みである。
あのキッカケがなければ、私はこの「引き寄せの法則」や「神様より」のブログを知ることも出来なかったと思う。
そして今回、出会った「エイブラハムの引き寄せの法則」にも出会えなかったと思うし、なによりもこうして「悟ること」自体が不可能だったと思う。
そして相も変わらず「不平」や「不満」をいつまでも延々と書き綴っていて、いつまでも低周波数の人間でいたと思う。
だから「全てに感謝」なのである。
物事には必ず「意味」がある。
その時は気づかなくても、いつか「あぁそうだったんだ」と分かる時がくる。
そして、今が「どうして全てに感謝なのか?」がやっと理解できた。
こう考えると、本当その時はとても嫌だったけど、両親に心から「ありがとう」と言える。
確かに、本当辛かった。
どんなに頑張って介護をしても「やって当たり前」。
私にはひと言も「ありがとう」はなかった。
いつも「親不孝娘」「親不孝娘」と怒鳴られていた。
私は悔しくて、悲しくてたまらなかった。
「ここまで頑張ってやっているのに、どうして認めてくれないのか?」そればかりだった。
でも今は、そんな気持ちもなくなった。
だって、私を怒らせる為には、悲しませる為には、そこまでやらなくちゃいけなかったんだもんね?
本当「ありがとう」だよ・・・。
お陰で私は、ものすごく怒りや悲しみを体現することができたのである。
きっと魂レベルでは納得のいく実体験だったに違いない。
いつか寿命がきた時に「あぁ、私はあんなにも怒りや悲しみを体験することができたんだぁ~」と満足すると思う。
勿論、もうこれ以上「怒り」や「悲しみ」は体験したくはないので、もう十分である。
そして、その反対にあるのが「喜び」や「楽しさ」の体験である。
「怒り」や「悲しみ」を知っているからこそ「喜び」や「楽しさ」がより強烈に感じることができるのだ!
そう分かると、本当「感謝」しか生まれない。
ここで改めて両親や私に嫌な思いをさせた関係者の方々にお礼を言いたい。
「私の為に、嫌な役を引き受けて下さって本当にありがとうございました、お陰さまで私は心から怒りや悲しみを体験、実感することができました。喜怒哀楽の怒哀の学びを体験することができました。心より御礼申し上げます、どうもありがとうございます。感謝です」
これはイヤミでも何でもない。
本当にそう思えたのである。
悟るというのは、まさにそういうことなのかもしれない。
いや、まだ「悟り」に至っていないかもしれない。
けれど、これまでの私とは、ちょっと違ってきているのは確実だと思う。
ここまで私の魂は成長できたのではないか?と自分に思う。
まだまだ成長が過程の段階ではあるが、これを知れたことはとても嬉しい。
本当「全てに感謝」ですね。
いつもありがとう↓