4年前


何をしていましたか?



4年前


私のまわりは


まるで戦争のあとのような惨状でした




検索したら


予想以上に覚えている人がいて


それをブログに書き記していることが嬉しかった





覚えていますか?


中越地震



親子3人生き埋めになったあの現場です


自家発電の薄暗い院内に


次々やってくる急患



夕飯の支度で揚げ物していた油鍋が落ちてきて


そのまま足を漬けてしまって


足の指が全部溶けてくっついてしまった人



お風呂場で子供の頭を守ろうと置いた手の甲に


鋭利なガラス片が刺さって


大事な右手の神経を切ってしまった人



つぶされたままの姿で


ホコリだらけで


息もなく運ばれてきた人



救急車すら走れない道


街灯もつかず真っ暗な街


秋の寒い霜降りる頃




ただ、ただ、一生懸命だった4年前




目の前の惨状を見てきたからこそ


伝えたい・風化させたくないことがあります




今、この瞬間


震度7の地震がきたら




想像できますか?




瞬きした瞬間にすべての景色が変わります



真っ暗になって




天井の電気は落ちてきます


タンスも食器棚も本棚も


家具という家具はすべて倒れます



携帯電話は通話できません


もちろん充電なんてもってのほか


明かりを求めてスイッチ押しても何もつきません



落ちてきたもので汚れて


手を洗おうとも蛇口をひねっても水など出てきません



トイレも水が出るわけありません


汚物を流すこともできません



冷蔵庫のものを食べようにも


ガスもつかないからお湯も沸かせないし


当然レンジでチンなんてできません



それでもためておいたお風呂のお湯も


半分以上は揺れで飛び出してあたり一面水浸し



便利なコンビニも当然機能してません





なにをどうしよう?


これが率直な言葉でした




そしてこの状態が約1ヶ月





毎日ガタガタと怖い余震


そんな中でも新しく力強く生まれてくる命もありました


患者さんのギプスカット


(電動ノコの小さいもので硬いギプスを切ること)


している時に


震度5強がきてヒヤッとしたこともあったっけ


オペできない患者搬送に


赤十字の救急車で普通なら20分で着く病院にも


倍以上の時間がかかって救急車内で様態が悪くなってあせったりもした



自宅だってとんでもないことになっているけど


車の中から病院へ向かって


帰ってきたらもう真っ暗で自分のことなんてなにもできなくて


少ない水で体を拭いて着替えまた車の中で寝る



そんな毎日でした





ねぇ、その前に阪神淡路大震災だってあったのに


どうして備えてられなかったんだろう




あの地震のあとに中越沖地震だってあったのに


まだノド元過ぎない3年後なのに何も備えてないどころか


関東や都心の電気を支えていた原子力発電所はいまだ止まったまま






人間って浅はかですよね






いろんな人たちに支えられて


この毎日がある


何年たってもこの日が来たら


そう思い出さなくちゃいけない






ちなみにこの記事の更新時刻は地震発生時刻です


黙祷の意味もこめて






今日は語ってみました



長々と読んでくれてありがとう