久々にふたりで車に乗った。
運転席の後ろのチャイルドシートに乗った愛子はマンションの敷地を出る前に泣き出した。
それはもう、地獄の入口に立たされた赤子のごとく、猛烈に泣いた。

僕は声をかけ、信号で止まるたびにサイドブレーキを引き、振り向き、愛子に触った。
でも、そんなことでは彼女を地獄から救うことは出来なかった。
もう、笑うしかないくらいの泣き声。
咽を潰した、低音の嗚咽が車内に響き渡る。
僕は声帯に影響がでるのではないかと不安になる。

ようやく、目的地に着いた。
そして、そこにママがいた。

そして今。
愛子は助手席に捕まりながら、満面の笑顔を讃えている。
髪の毛は風呂あがりのようにびちょびちょで、
前髪はおでこにわかめのように張り付いているけど、
とても満足そうに、僕を見つめている。
車内にはきゃっきゃっと愛子の笑い声が響いている。
天使のささやき。

天国と地獄。
子供は行ったり来たりしている。
大人になると、地獄が怖いから知識を得て、
でもそのかわりに、天国への切符を見失ってしまう。

愛子の世界は広い。


最近はツアー中ゆえ、地方出張が多くて家を空けることが多い。
家にいるときはツアーの合間。仕事の合間。

だから、家にいるときは愛子とずっと一緒にいる。

洋子はその間、病院にいったり、外出をすることも多い。
だから、愛子とふたりきりでいることも多い。

希少価値も相まって、愛子がとてもなついている。
僕がトイレにいっても追いかけてくる。
パタパタとはいはいでこちらに向かってくる音がすると僕が顔を出す。
そうすると、にっこり笑って愛子の歩みが加速する。
ドアを開けて両手を広げて抱っこしてと。
抱き上げるとトイレに飾ってある20枚くらいの自分の写真を見上げる。

僕は最近、独りでトイレに篭れない。
こんなことが嬉しい。


僕と洋子はベッドを並べて寝ている。
その横に布団を2枚並べて愛子が転がっている。
大人用一枚では、落ちてしまうほどの寝相。
我が家のすべての寝具が、寝室にある。

今朝、僕の肩がトントンと叩かれた。
目を明けると、薄闇の中に小さい顔があった。
瞳は僕をみて微笑んでいた。

「おはよう、愛子」と声をかけた。
シルエットが、少し揺れた。

彼女は微笑むだけで、まだ返事はできない。
いつ、「おはよう」と言ってくれるのだろうかと考えた。

朝起きて、始める考えることが未来への希望。
こんなことが嬉しい。





昨日は高松。今日は高知。
僕はいま出張中なので、これは洋子からのムービーメール。

愛子がソファーに自分でよじ登っていた。
ここまでは、3日前僕も知っていた事実。

そして、
僕の手元に届いた映像の中で、愛子はソファーから自分で降りていた。
遊んでいた絵本が床に落ち、それを確認すると、後ろ向きになって左足をゆっくりと伸ばし、
床についたところで右足が追従してきた。
ソファーの前にすとんと立つと、膝がガクガク揺れて、しゃがみ込んでしまった。

ここまで、ごく自然な流れで愛子はソファーから降りた。

でも、
これは昨日まではできなかったこと。
今日初めて、生まれて初めて、体験したこと。
にもかかわらず、映像の中の愛子はこの事実に全く驚く事なく、おもちゃで遊んでいた。

くもりなき眼で世界を見る。

まさしく彼女は世界とそう対峙している。
計算も、過去の経験による偏見もない。

「いま」が世界のすべて。

今日も愛子は僕の背筋を伸ばしてくれた。
ありがとうね。

本屋さんに行った。
いろいろな雑誌があり、沢山の本があった。

一冊の本を手にした。
25才で癌になり、28才で出産し、33才で癌で亡くなった母が子供に託した言葉の数々。
命がけの出産。
そして、癌との戦い。

この子が歩けるようになるまで
この子が言葉を話せるようになるまで
この子が幼稚園に入るまで
この子が小学校に入るまで
この子が恋をするまで
この子が結婚するまで
この子がママになるまで

そう思いながら彼女は子供に生かされた。
でも、最愛の時間は5年で終わりを告げた。

店先で、僕は涙してしまった。

いま、僕らは色々困難はありながらも幸せに暮らしている。
いまの、この幸せを噛みしめよう。


どうも最近食事のときの機嫌が良くない。
ご飯の途中でひと休みしたがったり、
「あーん」と口に運んだスプーンを手で叩いたり。
世に言う、イヤイヤが始まったのか?

昨日の夜も見事にスプーンを叩いた。

お粥がテーブルにぴちゃっと広がった。
それを愛子は掴もうとする。
ダメーっと、阻止する僕。
そしたら愛子は顔を真っ赤にして泣いた。
泣きながら、なおも手を伸ばす。
布巾でテーブルを拭きながらその手を掴む。
愛子の泣き声はどんどん大きくなって、
僕が手を放すとひとしきり大声で泣いた後、
顔を伏せて、猛烈な勢いで、テーブルを噛んだ。

もの凄く怒ったね。と洋子。

うん、びっくりした。我を忘れていたね。と僕。

その後、愛子のマネをして「ガガガガァ」をテーブルを食べたら大喜び。

ヴーっと声を出して笑った。
そんな愛子を見て僕らも笑った。

今日も我が家に笑い声が響いている。