粟田真人の謁見詳細 | 五千年前の大洪水と先史文明研究ゼミ

粟田真人の謁見詳細

粟田真人の謁見詳細
7世紀末の東アジアと粟田真人について
 7世紀末の日本国は、天武時代で、鎖国政策を執っていました。
8世紀初頭、唐の都・長安は世界の大都市として発展する直前でした。
この時、西遊記で有名な玄奘三蔵に師事し、28年間も長安で修行していた粟田真人は帰国後12年間 大宰大弐として国際交易に従事していました。 (詳細は時代背景を参照して下さい。)
  記紀作成の動機
この時、真人は「日本が世界情勢に立ち遅れること」を心配し、唐国(当時は周)との対等外交を進めるため、舎人(とねり)親王を通じて、持統天皇に奏上した結果、承認される。
記紀作成の目的
 粟田真人ら執刀使節団は、夏の大三角による建国神話と日本の治安を示す大宝律令を完成させ、「日本国の承認」と「対等外交」の大役を果たすため意気ようようと周の都・長安へでかけました。
真人の意気込み
 持って行った日本書紀は神代紀だけであったと思われます。その後、記紀は完成されたと考えられます。建国神話ですから、それ以外は説明する必要がないからです。
 真人としては、相手側を説得する日本書紀において漢風に作成しており建国史としての「天岩戸伝説(ペルシャ天文学)」や大宝律令には自信を持っていたと思われます。
*ペルシャ天文学(古代天文学:詳細は私の天岩戸伝説を参照して下さい)
ベガ


 天文学による天の岩戸 三ケ

      
天武とウノノササラ姫  

唐国への事前提出書類
 当時、色々な国が建国される中で、相手側に謁見(えっけん)を申し込む際に、自国の建国神話(日本書紀)と律令(大宝律令)を提出するのが慣例だったようです。
謁見への糸口
 この時、武后は『天岩戸伝説』を見て(神様が登場する)、興味を抱き、近習に調べさせたはずである。この神話が理解できるのはごく一部の天文学者である。この神話を夏の大三角の北極星の物語(天文学では傑作中の一つです。)であることをすぐに見抜いたと思われます。同時に、大宝律令に書かれている太極殿の位置がおかしいことに気づきました。
「これを一瞬に見抜くとはさすがですね。上には上がいることです。」そこで、からかいついでに特別に麟徳殿での宴の席に招き、武后はニヤリとほくそ笑み、自ら謁見に臨んだものと思われます。
謁見時の真人の服装
真人


 隋、唐の支配者は鮮卑(せんぴ)族と言われ、正装は歩揺(ほよう)金具を付けて拝謁します。「秦の始皇帝や隋の煬帝の服装スタイル」です。真人は唐の留学時代と大宰府で儀式の服装も十分知りつくしています。拝謁のいでたちも素晴らしかったようです。
 「彼は進徳冠をかぶって、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。(進徳冠…唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾り『歩揺金具』がついている紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。」とされています。
謁見時の会話
「神とは何か?」

「太極殿とは何か」


天帝

「夏の大三角は北極星になることをご存知ですよね。」
絵北極星

 「それでは、大宝律令の書物に書かれている藤原京の太極殿の位置がおかしくはないですか?」などの質問があったと思われます。
長安での見聞
彼らが見た実際の周の都・長安の都城や律令の運用実態は、日本国内での想像とは似て非なるものでした。(注 都城:都内の建物配置図)
 藤原京では大極殿は朱雀通の北端・中央に配置(陰陽五行説)していました。しかし、長安城を始めとする中国の都城では大極殿を含む皇城は朱雀通りの北端・中央より、わずか・右(東側)(陰陽五行北辰説)に位置していました。

太極殿

(これは現在の日本の神社仏閣でも見られます)(注 大極殿:天帝の住まいとされ北極星を意味します。
コメント
陰陽五行北辰説
 朱雀門から見て、北極星に擬えた太極殿がわずかに、右にズレていることは一般には判らないことです。例え 気づいたとしても太極殿が天帝の住まいの北極星(ポラリス)で、現在の北極星が未だ真北まで到達していないことを知る人は天文学系統を勉強していないとわからないと思います。
絵北極星の交替

        
      

 

当時の日本では、まだ陰陽五行説です。
「陰陽五行説」は一般的に風水理論を指しています。
北に玄武、南に朱雀、東に青龍、北に白虎を配置する天然の弥聖地に居を構えると子々孫々繁栄すると言われています。


上記の絵は、葬儀の時の北枕と言われています。
その訳は、旧歳差暦から来ています。 北を頭にして、仰向けになって寝てください。

正面(南)に鷹が見えます。これを朱雀と擬え、後ろ(北)に亀と海蛇が見えます。合体すると玄武となるのです。右手(東)に青龍(清い河)、左手(西)に白虎(街道)となります。

これは風水理論で、色彩も表しています。その訳は、南北が赤黒、東西が青白、中心が黄色となります。

風水理論は、居を構える時の場所の選定基準でした。
しかし、「陰陽五行・北辰説」は、更に一歩進んだ形であり、
北極星の天帝を地上の帝王に擬えて、律令制度に取り入れた物でした。この説は北方文化です。南方文化ではありません。
その訳は、当時(紀元700年)、シンガポール(緯度1.3度 ) 朝の4時30分(古代天文学測定時間)には、ポラリス(北極星)は水平線下で観測は出来ないからです。
測定データー


藤原京 Wikipediaより

Wikipediaより
北極星の位置
現在2016年でもポラリス(北極星)は方位180.322 高さ29.291)ですので天の真北よりわずか右(東側)となります。
Wikipediaでは2102年で天の真北(方位180度)に来ると書かれておりました。私の測定(エジプトのカイロ)では2069年(方位180.003  高さ29.401)となります。
北極星データー


ズレた太極殿

 この時代も北極星は小熊座のポラリス(方位188.647  高さ27.747)です。AD700年頃は方位が188.647度であり、天の北極が180度ですから、8.647度右(東)にズレています。
建国神話の「天岩戸伝説」に出てくる神(ベガ、デネブ、アルタイル)は北極星になれる星であり、太極殿は天帝の住む場所(北極星)に擬えることを説明したのでしょう。
そのため、夏の大三角であるベガやデネブは天帝の娘と表現されていたのです。
 それでは「なぜ太極殿の位置がおかしいのではないか?」という質問に対し、真人は、あっさり兜(かぶと)を脱いで、天文観測をしていないことを認めました。しかし、謁見時に他国の使者を露骨に愚弄することはしなかったはずです。つまり、則天武后の近習者が案に誘導したものと思われます。
相手側の評価
 唐人からは「好く経史を読み、属文を解し、容止温雅なり」と評されたという。武則天からは司膳員外郎に任ぜられた。
コメント
 建国神話の内容はペルシャ天文学と当時の日本の宮中の出来事を重ね合わせた神話なので、相手側としても理解しにくいところがあったと思われます。そこで、相手側も急遽この神話を理解できる人物を探したと思われます。幸いにもこれを理解する人物がいたことになります。そのため、「好く経史を読み、属文を解し」となります。
 謁見の質問に対し、「天体の観測をしていないのではないか?」という質問に対し、大恥を掻きながら、言い訳もせず、あっさり、間違いを認めました。そのため、真人一行は上記の質問に対し、それぞれ、そつなく回答したとされております。そして、「容姿温雅なり」と評価されていることは、見苦しい言い訳をしなかったことを現しています。
 しかし、これを認めたことは、国使として失格であり、自国の恥を暴露(ばくろ)してしまったのです。そのため、帰国後、この内容を天皇につぶさに報告し自ら罰を受けています。
その後の対応について
 唐の天文学者は真人を高く評価したはずですが、技術者ですから政治には口出しできなかったようです。そのため、「武后からは司膳員外郎に任ぜられた」と書かれています。大した役でもないようです。
 武后は相手をからかうつもりで謁見に臨んでいますので、真人の行動は相手の意表を突いたことになります。そのような人物に「司膳員外郎」では失礼に当たると思われます。
 当然、真人は幼いときから、玄奘三蔵の師事を受けていたことなどおくびにも出していないと思います。
謁見の後、真人は玄奘三蔵のお墓詣りもしたと思われます。
相手側も、有名な玄奘三蔵の直弟子ですから、中国側には大勢の弟子たちがいます。大いに盛り上がり武后も、後で知ることになり、ビックリしたと思われます。実際は、ごく一部の人にしか連絡はしなかったと思います。それらのことは、なにも記されておりません。真人の言いつけで箝口令(かんこうれい)が敷かれていたと思われます。取り敢えず、真人は大国相手に日本の国威を大いに発揚することに成功したのである。
帰国後
 大きな衝撃を受けて帰国した粟田真人らは、これらの日・唐の都城や律令制の差異を報告し、のちの改革に生かされていく。
太極殿についての醜態
真人は唐での醜態(しゅうたい)もつぶさに報告し、自ら罰を受けて、辞職したと書かれていました。
入唐で得た知識を生かすべく慶雲の改革において、律令制施行直後の体制改革に参画。律令の実情に即した不具合の修正に参加した。
 実際の遷都は2年後の和銅3年(710年)平城京遷都で表しました。(藤原京の材料を利用したとも言われています。) その後、大宰帥なども歴任(太宰府天満宮において、本殿は正面通りより少し右側に位置しているはずです。)
霊亀元年(715年)には正三位に昇った。
養老3年(719年)2月5日に死去。
藤原不比等の横やり

 
 日本書紀作成に当たっては、藤原不比等の横やり(父・中臣鎌足を悪者にしないように頑張っていた)が推測されていますが、真人は不比等の兄・定慧(中臣の真人)の親友でもあり、16歳も年上なので、不比等自体が、ある程度遠慮したものと考えられます。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょうね。